老人は空を見上げていた。
 満天の星は、どこの地にあっても等しく同じ。頭上に散りばめられ、星座を作る。連なり、時に流れ落ちる。
 遙か昔に見上げた星空の記憶は、誰と共にいた時のものだろうか。
 誰と共に、指差し眺めたものだったろうか。

「長…」
「お客人は行かれた。あのお方の為に、ひとり行かれた」
 金髪の娘の声に、長と呼ばれた老人が応えた。
「お客人はお客人の選ぶ道を行かれた。そしてまた、我らも我らの道を行く」
 振り返った老人の青い瞳に、天幕の群の中の篝火が映った。

「皆に、支度をするように伝えなさい。 ―――― 出発だ」

akai tori nigeta -4-
 ごつごつと岩場が続く荒れ野に男がひとり立っていた。
 時折星明かりを硬質に反射するのは、青龍刀らしい。刀を握る腕にも、顔にも、闇を切り取った様な文様状の痣が貼り付いていた。
 男がライターの火を灯そうとした。
「…チッ」
 火花を数回空疎に散らし、ガスが切れていることに気付く。
「ほらよ」
 横合いから出された火に、咥え煙草を近付けた。
「おう。すまね…」
 小さな火灯りに映し出された頬の傷痕と紅い長髪。男が反応する前に、紅い髪が流れるように動いた。
「ぐがああッ!!」
「さーてと。道案内、して貰おうか」
 腕を捻り挙げられ、肩から走る激痛に顔を歪ませた男に、悟浄は凄みのある笑いを見せた。
「貴様…ッ、三蔵一行の!?」
「その節はうちのクソ坊主がお世話になったよーで。…前哨がいるってコトは、本隊が近くにあるんだろ。サッサと案内しな。…咥え煙草でも、特別許してやんよ」
「ぐうっ…!」
 悟浄は捻り挙げる力を強くした。
「…フ。フはは。案内だと?紅孩児様を裏切る様な真似、するとでも思ってるのか。世話か…坊主の世話は確かにしたがな」
 激痛に脂汗を垂らしながら、男は嘲笑った。
「三蔵法師の肉だからな。ありがたく供物に頂戴したさ。     ほら、丁度、ここでな!
 咄嗟に周囲を見回した悟浄の目に、縄を張り巡らせただけの粗末な祭壇らしきものが写った。
「闘える男、全員で喰らったのさ。ぎりぎりまで足を開かせてな、穢してやったのさ!…美味かったぜ、聖なる肉はよ……!」
 男の狂ったような哄笑が、砂漠の荒野に響いた。

「…きったねえ面」
 悟浄は僅かに腕の力を緩め、男が弾かれたように駆け出した。
 嗤ったまま身を捻り、青龍刀を振り上げる。
 その瞬間。
 錫杖の銀の軌跡が、振り上げた腕ごと男の顔面を横断した。
 男の顔が顎を境に分断され、銀に続いて赤い滝が宙を彩った。
「口が臭えんだよ。…あいつがそんなんでケガされるタマかよ。せいぜい、イッペン風呂入るくらいだろ」
 錫杖を振り切ると、鋼にまとわりついていた血液が飛沫になって飛び散った。
 悟浄は縄で作った結界を見た。ぐるりと四角く区切られた中に、手近な岩を重ねた祭壇と、ぼろぼろになった呪符があった。数日前に作られたものであるらしいのに、それは既に風化したような気配を漂わせていた。
 錫杖の一閃と共に、祭壇が破壊された。
 悟浄の周囲に砂埃が舞い上がり、吹きすさぶ風が千切れた呪符ごと消し去った。
 風が全てをさらい、後には何も残らなかった。

「下司共なんぞに、あいつから何を奪うことも、何を穢すことも、出来ゃしねえんだよ。あいつに何の痕も残すことなんか、出来ねえんだよ」
 咥えたハイライトの先端に近付けたライターが、小刻みに震えた。
 それに気付き自嘲を浮かべると、悟浄は煙を深く吸い込んだ。
 ニコチンが巡り、頭が急激に冷える。
 周囲を見渡しても、経文らしきものの痕跡は無い。
「…ヤツ等が、やっぱ持ってやがるんだろーな。道案内無くしたのは、拙かったかもな」
 口調だけは軽く、逸る心を抑えて進んだ。

 妖怪の本拠地に乗り込み、経文を取り戻す。
 悟浄はそれしか考えてなかった。
 冷えた空気の中、まだ掌に触れた温もりが蘇る。
「今のアイツは経文渡されたって、ワケ判んねーだろうけどな」
 そう思いながらも、悟浄は自分が奇跡を望んでいることを知っていた。
 桃源郷の基となる天地開元経文の聖なる力が、三蔵の上に奇跡をもたらしてくれるのではないかと。三蔵が師から受け継いだという、その想いごと、温もりごと、彼の記憶を取り戻す術になってくれることを ―――― 願っていた。

 それとも。

 あの黄金の輝かしさを持つ三蔵であったなら、自分の腕の中に抱かれることなどなかったろう。手を伸ばすことが、出来なかっただろう。
 刎ね付けられることが判っていて手を伸ばす勇気を、自分は使い果たして仕舞ったのだと、悟浄は嗤った。
 女のほっそりした手に叩き落とされ散った、紅い花びらを思い出す。
「…人生最大のフられ方を連想しちまってる、ってのは、我ながら腰が引けてンな」
 三蔵の躯を抱き締めたのは、だから怒りに駆られてのことだったのかもしれない。
 自分のことを、見知らぬ者の様に見た三蔵への、怒り。
 耐え難い程の、喪失感。
「とにかく、経文は取り返さねえとな。例え ―――― 」
 手を差し出すことが、出来なくなっても。
 あの黄金の太陽のような、三蔵を取り戻せる可能性があるのならば。

 満天の星を見上げ、悟浄は自分が星座の名を知らぬことに気付いた。知っているのは方角を指し示す、小さな明るい星。
 旅人を迷わせぬ、星。
「もたもたしてるような暇はねえしな」
 悟浄はにやりと笑った。

 妖怪達の本拠地は、そこから数キロ離れた場所にあった。
 妖怪の大隊の天幕の群と荷物の山。どこか荒んだ雰囲気が漂っている。悟浄は見張りの目を盗んでひとつの天幕に近付いた。
 濃密な気配がした。
「……んああんっ」
 女の声と、律動的な振動。汗ばむ体臭。
 嬌声と呻き声が暫く続き、やがて気怠い声が天幕の布地越しに流れて来た。
「…ねェ、アンタ。こんな所で油売ってていいの?」
「何言ってやがる。俺はこの間の戦闘で負傷してんだよ。そうでなきゃ、こんな売女の所なんざ、来やしねえよ」
「いっそ首でももぎ取られて来ればよかったんだよ、アンタみたいな男は」
「このアマ」
 殴りつける気配に、悟浄は眉を顰めた。
 泣き声と、それを宥める男の声。やがてまた男が運動を再開したらしい、律動的な動きと荒い息が聞こえて来た。
 悟浄は盛大に顔をしかめた。
「俺だって命からがらだったんだぜ?それをお前の所に…戻って来てやったんじゃねェか」
「この間の…三蔵法師の…だろ?」
 洩れ聞こえた名に、悟浄が固まった。
「そうだぜ。俺達は三蔵法師を捉えた。三蔵法師を掴まえてやったんだ!経文ごとだぜ!?紅孩児様が、どれだけ喜ぶと思う?俺達一族は、格別取り立てて貰えるって、みんな喜んだ」
「…でも、逃げられたじゃないか」
 途端に男の動きと声が、荒々しくなった。
「…っ、やめなよっ!」
「うるせえよ。…俺達は、…三蔵の肉を、喰らおうと、したさ。牛魔王様が…蘇った後の、妖怪帝国で俺達一族が、どれだけ……」
「男達だけで、喰らおうと、するからじゃ…ないかッ」

 生々しく続く交合の物音と呻き声は、もう悟浄の耳には入って来なかった。
 血管が破裂しそうな怒りがわき上がり、他のことなど考えられなくなっていた。
 三蔵の躯を喰らい、三蔵の心ごと引き裂いた妖怪が、この天幕の中にいる。

「女共に渡したら、全員で…独り占めしたがって、殺し合いが、始まるだろうが…ッ」
「…ああ。食いたいね。三蔵の肉。全部、喰らい尽くしたい…美味かったろう、三蔵は?」
「…ああ、美味かったぜ。聖なる力を込めた、肉体だ。それを…」
「三蔵法師を…連れ去りやがって……」
「三蔵を喰らってる俺達は、バタバタと、倒れた」
「意識を無くして、そのまま戻らない奴も。毒だね…」
「…毒だ…俺も、未だに右手が動かねえ」

「…アタシ達から三蔵を奪ったヤツ等」
「三蔵と、経文を奪い去った……許さねェ」

 天幕の裂ける音に妖怪の男が振り向いた時には、首に錫杖の鋼が食い込む寸前だった。
「ひいっ」
「黙ってろよ」
 蛙のように躯を広げた女から、男が離れた。
 天幕に籠もった熱気が、悟浄に不快感を与えた。
 目の前の、萎えた一物をだらしなくさらけ出した男が三蔵に触れたと思うと、再び血管が破裂しそうな怒りを覚えた。
「…俺もさ、出刃亀はシュミじゃねえんだけどな。ちっと聞き捨て置けねえコトが聞こえちまったもんでな」
「貴様っ、三蔵一行の…!?」
「てめェの汚えモンは、後で落としてやるよ。…その前にな」
 刃が喉に食い込み、血液が筋を為した。
「経文は、ない、のか?」
 悟浄は無表情だった。無表情のままで、じりじりと食い込む鋼を進めて行った。
「アンタッ!」
 躯の前に脱ぎ捨てた服を抱えただけの女が、叫んだ。
 一瞬だけ視線をやった悟浄は、女の頬が赤く腫れているのに気付いた。叩かれた痕を残しながら、自分の情夫の為に叫ぶ女。
      嫌なモノを見た、と悟浄は心中で呟いた。
 これから起こることを考えると、到底見たくはないものだった。
「経文を持ち去ったのは、お前達じゃないと言っていたんだな?」
「けっ」
 男がせせら笑った。
「地べた這いずって一生探してやがれ」

 どッ。

 刃が首を落とし、狭い天幕の中に生暖かい血の雨が降った。
「アアアアアアアッ!!」
 降り注ぐ男の血液に染まった女が叫んだ。
「…殺してやるっ!お前を殺してやるッ!!三蔵も、ヤツ等も、経文ごと全部!!殺して、犯して、奪い尽くしてやるうッ」
 服に隠してあったナイフを両手に握り込むと、全裸の女が悟浄に向かって突き込んで来た。
 錫杖が振るわれ、女の身体ごと天幕を吹き飛ばした。
 天幕の荒布の下でもがく躯を、悟浄は一瞬見下ろした。無表情に見下ろしたまま、錫杖を閃かせた。

 直に女の断末魔の姿を見ずに済んだ。
 悟浄はそう思い、苦く唇を歪めた。

「敵襲だ     ッ!!」
「チッ…。まあバレるか、これだけ騒げば」
 集合しつつある、怒声と走る足音に悟浄は振り返った。
 途端に飛来した矢が頬を掠める。
「…どーやら、誤解も色々あるみたいだがな」
 あっという間に炎を照り返す青龍刀に囲まれた悟浄は、一歩踏み出した。ワークブーツの下で、砂利が軋む。
「殆ど私怨って気もしちゃいるんだがな。…許せねえんだよ」
 振りかざす青龍刀に向かって、無造作に錫杖を振るう。
 妖怪の手から放れて天高く飛んだ長刀が、悟浄の躯の真横に落下し真っ直ぐ大地に突き刺さった。

「汚え手であいつに触れた奴…ひとり残さず、この世から消してやる」

 錫杖の銀の一閃ごとに、腕が落ち、足が飛んだ。
 また翻しては、首を狙って叩き落として行った。
 肉を叩き、骨を砕き、動脈を切断した。
 悟浄は吹き上がる返り血を避けなかった。
 髪も、顔も、しとどに濡れては朱を滴らせた。

 荒れ狂う思いのままに走り、長い髪がそれに従って篝火を照り返した。 
 紅い色の滴が髪の後を追うように散らばり、磨き抜かれた石榴石の連珠が千切れて空を飛ぶように、紅く輝き、地に落ちる。
 銀の閃光が残像を残しては、風を切るその閃きごとに、幾名ずつかの妖怪が確実に倒れ伏す。

 逃げまどい、吹き飛ばされた妖怪達が、自分達の天幕にぶつかり、篝火を倒した。あっという間に炎は拡がり、携帯燃料に燃え移った。
 燃え落ち、破裂し、それが劫火の巻き起こす風の音に交じる。明々と天幕の群が燃え上がり、朱い輝きに揺らめく影が、黒々と大地に映る。悟浄の凶悪なまでな銀の閃きが、それに浮かび上がる。
 返り血にまみれた悟浄の顔に、深紅の皓々とした瞳があった。
 妖怪達に取って、悟浄は死をもたらすベルセルク(狂戦士)の姿そのものだった。

 夜空が赤く染まった。
 砂漠の砂地に血の雨が降り、飢え乾いた大地はそれを吸い込み、受け止め切れずに血だまりを作った。
 そのただ中に、立って動く姿はたったのひとつ。
 ゆらり、と炎に向かう長い髪から、深紅の滴が落ちる。
 ここに、経文はない。
 嫌な予感に悟浄の気が急いた。 

 大きな擦過音と共に、白く強烈な光が闇を切り取った。
「!?」
 急に照らし出されて、悟浄は眩しさに手を翳した。

悟浄ッ!

 急停車するジープから、八戒と悟空が飛び出して来た。
「悟浄、一体これは…。三蔵はどうしたんです。見つからなかったんですか!?」
「お前ら、言伝てた集落へは向かわなかったのかッ」
 全身を朱に染めた悟浄に、八戒が走り寄った。悟浄自身に怪我はなく、全てが返り血だと知って、安堵の溜息を吐くのと同時に、強張ったままの彼の表情に目をやった。
「悟浄の伝言ての、彷徨い続ける異国の民とやらには、会えませんでした。…僕達の見たのは、移動した集落の痕跡」
「まだ、竃の灰の後が熱かった。痕跡が残り過ぎてて、何だか慌てて出発した跡みたいだった」
 悟空が真っ直ぐに悟浄を見た。
「三蔵、そこにいたのか?」
「ああ」
 そして未だ、異国の民と行動を共にしているのだろう。
「……クソ!爺ィにやられた。多分経文も奴等が持ってる」
 錫杖を地面に叩き付け、ジープへ向かおうとした。
「…待って」
 八戒が気配に気付き、倒れた天幕へと向かった。
 傷病者用の天幕だったらしいそこへは、数名の妖怪が寝かされていた。

『意識を無くして、そのまま戻らない奴も。毒だね…』
『…毒だ…俺も、未だに右手が動かねえ』

 悟浄は妖怪達の会話を思い出した。
「異国の、薬かもしれん。俺も怪しげな香で躯が麻痺した。獅子をも倒す、って言ってたからな。俺は後から中和剤でも飲まされたのかもしれないが…」
 身動きひとつ無い、と3人の思っていた妖怪が、突然声を上げた。寝かされたうちのひとりが、狂ったような笑いを続ける。
「人間如きの薬に倒れたのか、俺達は!三蔵の肉に毒でもあったかと思ってたぜ」
 半身を全く動かさないまま、不自由な唇で棘のある嗤いを吐く。
 口を塞ごうと錫杖を構える悟浄を、八戒が留めた。
「…あなた方の仲間は全て倒しました。あなたはここで無惨に乾き死ぬだけです。それがそんなに可笑しいのですか?」
 哄笑が高くなる。
「全てか!ハハハ、笑わせやがる。勝手にそう思い込んでろ!毒だと…!?今度はやられねえさ。この間とは比べ者にならない人数が…とっくに先発隊で向かった後だ!!皆殺しにして、今度こそは経文を紅がい…」
 高笑いを続ける男の眉間に、悟空が如意棒を突き付けた。
「…殺して、やんねえよ。先発隊だか何だか知んねえけど、そいつらも全部倒す!」
 言い捨てるとジープに走った。
「…僕も悟空と同意見です。三蔵を害しようとする者は、許しません。あなた方はここに忘れ去られて、天幕に火が燃え移って焼け死ぬか、飢えて、乾いて、死ぬだけです。…長く、苦しみなさい」
 碧の眼が冷ややかに光り、悟浄の背を押して天幕を後にする。

「ハハハハハ!ハハハハハ!……」

 劫火の音に紛れ、哄笑が続いた。
 走り出したジープの上、誰ひとり振り向きもしなかった。













- 続 -



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