akai tori nigeta -3-
 長安の三蔵の許へ、何度も通った。
 長安を流れる揚子江、そして街中に巡る運河。小舟に揺られて、斜陽殿を奥に控えた寺院の、正門水路をくぐった。
 八戒は年に数回は三蔵の許への出頭を義務づけられていた。
 村落の民と妖怪千人を殺した男を、三蔵以外の僧達は野放しにすることを赦さなかった。出頭の度、僧達は無言の視線で八戒を責めた。
 「猪悟能」の名を捨てて、「猪八戒」としての人生を歩む。三仏神から三蔵がもぎ取った新たな人生の、小さな代償だった。

『…うぜぇ』
『まあ、あの方達にとっては、それでも最大の譲歩でしょう。大っぴらにあなたと悟空に会う理由が出来て、僕は嬉しいくらいです』
『てめェはそうでもな。ヤツ等は単に、オレに責任を全部押し付けたいだけなんだよ!』
 三蔵法師と大量殺戮者との面談室には、あっという間に煙草の煙が充満した。
 三蔵はふてくされたように煙草をふかし続け、悟空が八戒にまとわりつく。静かな寺院には珍しい、子供の笑いと怒鳴り声。控え目でいて臈長けた青年の笑顔。
 それを見ながら、付き添いの悟浄はハイライトの煙をゆっくり吸い込んだ。
 悟空は、三蔵と八戒を交互に見上げて明るく笑う。
『……お子チャマは悩みが無くていいねえ』
『あーっ!何だよ、悟浄!お子チャマとか言うなよっ』
『お子チャマをお子チャマと言って、何が悪いんだよ。このサル』
『サルって言うな!』
 何度も繰り返した会話。
 やがて騒々しさに堪え兼ねた三蔵が雷を落とす。
『てめェ等、煩ェんだよ!も、さっさと帰れ!ついでにサルも連れて行け!!』
『サルって言うな!!』

「…運河に繋がってる正門な。そこを通らない裏道もあったりしたんで、出頭命令以外の時はそっち通ってたけどな。…何せサルが見つけた裏道だから、塀は越えるは林は抜けるはの、思いっ切り山アリ谷アリでやんの」
 ぼんやり明るく、薄らと暗い天幕の中、悟浄は三蔵を抱き締めていた。分厚い絨毯の上、古びた天鵞絨のクッションに寄り掛かりながら、ぽつぽつと思い浮かぶことから三蔵に語りかけてやる。
 三蔵はその声音をじっと聞いている。

 パニックの収まった三蔵は、悟浄から離れようとしなかった。記憶にない自分のことを知りたいのだろうと、悟浄は天幕の片隅のクッションに片肘を付いて足を投げ出した。
「…どうしたんだよ?ンなとこで突っ立ってないで、座れば?」
 三蔵は悟浄の目の前で、困惑した表情で立っていた。
    三蔵」
 三蔵に向かって、手を差し出した。
 苦笑しながらも差し出してしまった手は、三蔵の困惑が治まらないようだったら、すぐに引っ込めるつもりだった。
 しゃら…
 金の鎖が鳴り、白い手が伸びる。
 悟浄はゆっくりと三蔵の腕を掴んだ。三蔵は一瞬だけ緊張の表情を浮かべたが、逃げ出さなかった。
 引き寄せると、素直に一歩踏み出す。
    三蔵」
 声が掠れた。
 悟浄の腕に引かれて、細身の躯がゆっくり近付く。紫暗の瞳が悟浄を映し出す。
 三蔵が悟浄の傍らに膝を突いた。
 悟浄は、紫暗の瞳から目を逸らすことが出来ずに、更に三蔵を引き寄せた。
 しゃら…
 悟浄の胸に置かれた掌が熱かった。
 三蔵の躯に腕を回す。

 驚かせたくなかった。逃げられたくなかった。抱き締めたかった。

「 ―――― 三蔵」
 呼ぶ声が、喉に絡んだ。
「!」
 三蔵の躯の均衡が崩れ、悟浄の胸に重みが落ちた。
 紫玉と紅玉が至近で見つめ合い、匂い袋の甘い香りが漂った。
 悟浄は三蔵の重みを胸に感じながら、三蔵の躯に回す腕を狭めた。金糸の髪が身じろぎに揺れ、圧された胸から吐息が漏れる。
「…ああ、悪ィ。なあ、そのまま聞いてろよ」
 ふたりの躯が天鵞絨のクッションに沈み込む。

 どうしようもなく短気な、我が儘な高僧、玄奘三蔵。
 太陽のような金瞳で、常に三蔵の周囲で騒動を巻き起こす悟空。
 穏やかな碧の瞳に微笑に辛辣さを隠した八戒。
 悟浄の垣間見た長安での三蔵、旅の最中の三蔵の様子。

「…とにかく短気なんだよなあ。お前がすぐに銃ぶっ放すもんだから、俺なんか何回死に掛けたか判んねえくらい」
 胸に触れる体温に、意識的におどけた口調になる。知ってか知らずか、三蔵は悟浄の瞳を見つめたままでそれを聞いていた。
 胸に置かれた掌が動き、急に紅い髪を引く。
「ん…?俺?俺のこと?俺は…お前等に比べれば品行方正よ?…って言いたいけどな。定職ない割りにはメシにも女にも不自由してなかったし、気楽な身分だったよな。…今は八戒サンという、怖ーえ、見張り役もいるしな」
 嘆かわしい、という身振りをする悟浄に、紫暗の瞳が揺れた。
 微かに微笑んだのだと気付いた悟浄は、胸の重みが一層強くなったように感じた。
 腕を撫でる指先の感触に、悟浄の胸が続けて高鳴る。
「何?ああ、それ、古傷」
 日焼けした腕に、薄く白く浮き上がる傷痕があった。
「それは…酒場で喧嘩した時のかなあ。ああ、あん時は割れた酒瓶で突いて来られたから。八戒に散々怒られたんだっけ、そう言えば…」

 月さえも沈む夜更け。
 普段通りの酒場。普段通りの女達。普段通りの酔客。
 怠惰な安定の中、酒を飲み、女を膝に座らせて賭博に興じる悟浄。
 カモを失わないように、そこそこに勝たせ、そこそこに奪う。
「悪いね」
 心にもない言葉を、にやりと笑って吐く悟浄。
「また最後にはふんだくりやがる」
「たまにはふんだくってくれよ?ま、ここは俺の奢りね」
「俺のカネなんだよ」
「あら、悟浄が勝ったら悟浄のよ。でも悟浄、ツケもそろそろ払ってよね」
「うわ。やぶ蛇じゃんか」
 紫煙と、香水の甘い香りをまき散らしながら、悟浄の座るテーブルがどっと湧いた。
 その笑いが静まった瞬間。
「しつこいのよ!」
 女の掌が頬を打つ甲高い音が、離れたカウンタ席から響いた。
 女に執心する常連客。店の女は客には愛想がいい。脈があると見れば、男も足繁く店に通い、ことあるごとにプレゼントをしたり、誘いを掛けたりもする。
 よくあることではあるが、金品を受け取った女が店外への誘いに応ぜざるを得なくなるのは、女に不貞不貞しさが足りなかったのか、愚かだったのか。
「一回寝たくらいで、情夫気取りなんてやめてよねっ」
「…お前っ!?」
 椅子の倒れる音と、グラスの割れる音。女達の悲鳴。
 男の腕から逃れた女が悟浄にぶつかる。
 その女の腕に、客が掴みかかろうとした。
「!?」
「…そうゆうの、外でやんない?人前で恥かかされちゃったら、女の子絶対ぇ逃げると思うんだけど?ってか、今はっきりあんたフられたと思うんだけど?」
「そうよッ!アタシはアンタなんかご免なんだからねッ!」
 客の腕を止めた悟浄の言葉に、ヒステリックな叫びが被さった。
「…この…このォォォ!!」
 悲鳴が沸き上がった。
 暴れる男と逃げる客がテーブルにぶつかり、酒瓶を叩き落とす。
「きゃああああ!」
 男が女に掴み掛かるのを、悟浄は背後から引き離した。
「……ったく!聞く耳持たねえってヤツかよ。店壊れる前にサッサと出てけよ、てめェ」
「貴様に…貴様なんかに判るもんか!何時でも違う女を侍らせてるような奴に、何にも判るもんか!!」
 男は滅茶苦茶に腕を振り回し、悟浄を振りきった。
「…貴様なんか……貴様なんかに…」
 男が割れた酒瓶を手に取った。
「たったひとつのものを喉から手が出るほど欲しいって気持ちが、判るもんかアアアアアッ!!」
 鋭利な輝きを見せながら、薄い緑色をした硝子の瓶が、酒精を滴らせながら悟浄に突き掛かってきた。

 酒の滴と硝子の破片が、きらきらしながら飛び散るのが見えた。
 男の、真っ青な顔色と、女を永久に失ったことを知る半ベソの表情が判った。
 逃げ出す女の後ろ姿の、腰の引けた尻が醜いと思った。

 皮膚と肉の裂ける感触と、後から追いかけてくる痛覚。頬に飛び散った自分の熱い血液。
「…俺とあんたの趣味が違うってだけだろ」
 酒瓶を左腕で弾き、握り込んだ右拳が男の頬に飛んだ。
 吹き飛んだ男の躯が壁に当たり、窓の硝子が落ちて割れる音が続いた。
「…あーあ。まァた顔出せねえ店が増えちまったじゃねーかよ」
 右の拳をぷらぷらと振ると、左腕から血が滴った。
「ねえッ!悟浄、助けてくれてアリガト。アタシの為に怪我なんかして…。部屋に来てよ、手当するから」
 先程ヒステリックな叫びを上げたとは思えない、女の甘ったるい声だった。
「…俺、あいつの趣味は判んねえから。悪ィんだけど、家で美人が待ってるのよね。…おい、先刻の勝ち分で、ここ、チャラにしといて!」
「お、…おう。」
「悟浄ォ!?」
 最後に床に伸びてる男に一瞥をくれ、そのまま店を出た。
 ぽつり、ぽつりと続く街灯に、影法師が回り込み、追いかける。
「…喉から手が出る程なんて、知ってんだよ。出せねえだけで」

 差し伸べても、差し伸べても、撥ね除けられた自分の手。
 只一度、正真正銘自分だけに向けられた、涙に濡れた眼差し。
 血塗れて永遠に閉じられた、その眼。

 腕を差し伸べ続け、命をも差し出そうとし、 
 その全てを受け取られることのなかった自分。

「…知ってんだよ、一番欲しいものなんか。そんなもん、怖くてもう作れないってこともさ」

 明け方近くに叩き起こされ流血に驚いた八戒は、一瞬後には清潔なタオルで悟浄の腕をくるみ込んだ。
「…色々と、言いたいことはあるんですけどね。そこまでヘンな顔されるとちょっとね。…ちゃんと後日シメますからね?…ああ。取り敢えず、床に血を垂らさないで下さいね」
 ヘンな顔とは何事だよ、と尋ねようとする悟浄に、八戒は先回りして、聞こえよがしの独り言を言った。
「…そっかー。僕、自虐的ってよく言われますけどね。自虐的なカオって、中々の見物だったんですね。いや、僕も次から鏡でも見てみましょうかねえ」
「八戒サン…?」
 鼻白む傍から、抗生物質と鎮痛剤の錠剤と、蜂蜜入りのホットミルクのマグカップを差し出されては、喧嘩を売る気も買う気も起こらなかった。

 薄らとした傷痕よりも、殴りつけた拳の痛みを強く思い出す。
 自嘲の笑みと共に、男を殴り飛ばした右掌を見た。それは、規則的な動きを繰り返す三蔵の背にあった。
 温もりがじわりと伝わる。
「…何よ?寝ちまったワケ?」
 そろそろと躯を動かし、三蔵の躯をクッションの上に降ろす。
 金色の輝きを留めた髪が散らばり、その真ん中の貌が心細いほど子供に似ている。
 悟浄は、ヴェールを拾い上げるとそうっと三蔵の躯の上に掛けた。
 せめて、羽根のように軽く柔らかく、三蔵を覆ってくれと思った。

「じいさん」
 夕暮れの日差しの中、老人が振り向く。
「…あいつ、頼めんだろ?」
 赤い、赤い夕日だった。
「お客人は…ひとりで経文を探しに行かれるか。あの妖怪の群の中に、挑もうと仰るか。命より大切なものなど、この世のどこにあると言われるのだ?」
 悟浄は夕日に染められた自分の掌を見た。
 まだ三蔵の体温を留めているような気がした。
「おいおい、別に死にに行く訳じゃねえんだけどな。必要なモノは取り戻す。無事戻って、ちゃんとあいつは受け取る。また俺達は旅を続ける。…な、それまで頼めるんだろ?」
 老人の瞳が、逆光の中深い輝きを見せた。
「……お客人。まだあのお方を、只の旅の道連れと申されるのか?命掛けてまでしても、あのお方の為に魔の群に飛び込もうと…それでもお客人は…」
「じーさん、ストップ」
 悟浄が掌を老人に向けた。
「俺さ、よく判らねんだわ。只の旅の道連れも、大切なものも、よく判らねえわ。とにかくまあ……言い辛いんだけど、仲間?放っとけないっしょ?仲間のタカラモノだっつーんだから」
 砂漠の空に、落日が大きく赤く燃え上がる。
「取り戻す。それまで頼む。…ここはあいつには居心地いいと思うしな」
 悟浄は老人の青い瞳に向かって言った。
「それでも紫の眼はいないようだな。青、緑、薄茶…。あいつは誰とも違うんだな」
「わたしは…お客人と同じ紅い色の瞳を、遙か昔に一度見たことがある。真っ白な素肌に紅い瞳。銀の髪の娘だった。普通には生まれず、普通には育たないと言われていた。それでも無事に成人した。…余りに昔過ぎて、今は生死も知れないが」

 それでも、旅に連れ出せばよかった、と、嗄れた声で続けた。

「一度助けた命、匿った命。むざとなくすようなことは致しますまい。安全に、お守りしましょう。必ず生かしましょう」
「頼むわ」 
 悟浄は同じ言葉を繰り返した。
「あいつのこと、頼むわ。…あいつを探しに、もうふたりここに来るかもしれねェ。そいつ等のこともヨロシクな。ついでに、俺が妖怪達のトコに向かったって伝えてくれると助かるんだがな」
「その方達にお逢い出来たら、必ずお伝えしましょう」

 歩き出し、振り返る。
 真っ平らな砂漠に、天幕の群だけが影を作り、火灯りを灯す。
 悟浄はひとつの天幕に目を止めた。
 三蔵の眠る天幕だった。

 大切なものなど、もう作らない筈だった。
 顧みられることを願ってしまうものなど、失うのが恐ろしいものなど、
 二度とは作らない筈だった。
 触れるのを躊躇ったのは、何よりも自分を守りたかったからの筈だった。

 胸に落ちた重みと、三蔵の触れた肩の熱さを思い返す。
 自らの掌で感じた、三蔵の体温を思い返す。

「喉から手の出る思い…ね」
 伸ばした手に白い腕が差し出された瞬間、胸に痛みを感じたことに、漸く気付いた。













- 続 -



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