『…うぜぇ』
『まあ、あの方達にとっては、それでも最大の譲歩でしょう。大っぴらにあなたと悟空に会う理由が出来て、僕は嬉しいくらいです』
『てめェはそうでもな。ヤツ等は単に、オレに責任を全部押し付けたいだけなんだよ!』
三蔵法師と大量殺戮者との面談室には、あっという間に煙草の煙が充満した。
三蔵はふてくされたように煙草をふかし続け、悟空が八戒にまとわりつく。静かな寺院には珍しい、子供の笑いと怒鳴り声。控え目でいて臈長けた青年の笑顔。
それを見ながら、付き添いの悟浄はハイライトの煙をゆっくり吸い込んだ。
悟空は、三蔵と八戒を交互に見上げて明るく笑う。
『……お子チャマは悩みが無くていいねえ』
『あーっ!何だよ、悟浄!お子チャマとか言うなよっ』
『お子チャマをお子チャマと言って、何が悪いんだよ。このサル』
『サルって言うな!』
何度も繰り返した会話。
やがて騒々しさに堪え兼ねた三蔵が雷を落とす。
『てめェ等、煩ェんだよ!も、さっさと帰れ!ついでにサルも連れて行け!!』
『サルって言うな!!』
「…運河に繋がってる正門な。そこを通らない裏道もあったりしたんで、出頭命令以外の時はそっち通ってたけどな。…何せサルが見つけた裏道だから、塀は越えるは林は抜けるはの、思いっ切り山アリ谷アリでやんの」
ぼんやり明るく、薄らと暗い天幕の中、悟浄は三蔵を抱き締めていた。分厚い絨毯の上、古びた天鵞絨のクッションに寄り掛かりながら、ぽつぽつと思い浮かぶことから三蔵に語りかけてやる。
三蔵はその声音をじっと聞いている。
驚かせたくなかった。逃げられたくなかった。抱き締めたかった。
「 ―――― 三蔵」
呼ぶ声が、喉に絡んだ。
「!」
三蔵の躯の均衡が崩れ、悟浄の胸に重みが落ちた。
紫玉と紅玉が至近で見つめ合い、匂い袋の甘い香りが漂った。
悟浄は三蔵の重みを胸に感じながら、三蔵の躯に回す腕を狭めた。金糸の髪が身じろぎに揺れ、圧された胸から吐息が漏れる。
「…ああ、悪ィ。なあ、そのまま聞いてろよ」
ふたりの躯が天鵞絨のクッションに沈み込む。
「…とにかく短気なんだよなあ。お前がすぐに銃ぶっ放すもんだから、俺なんか何回死に掛けたか判んねえくらい」
胸に触れる体温に、意識的におどけた口調になる。知ってか知らずか、三蔵は悟浄の瞳を見つめたままでそれを聞いていた。
胸に置かれた掌が動き、急に紅い髪を引く。
「ん…?俺?俺のこと?俺は…お前等に比べれば品行方正よ?…って言いたいけどな。定職ない割りにはメシにも女にも不自由してなかったし、気楽な身分だったよな。…今は八戒サンという、怖ーえ、見張り役もいるしな」
嘆かわしい、という身振りをする悟浄に、紫暗の瞳が揺れた。
微かに微笑んだのだと気付いた悟浄は、胸の重みが一層強くなったように感じた。
腕を撫でる指先の感触に、悟浄の胸が続けて高鳴る。
「何?ああ、それ、古傷」
日焼けした腕に、薄く白く浮き上がる傷痕があった。
「それは…酒場で喧嘩した時のかなあ。ああ、あん時は割れた酒瓶で突いて来られたから。八戒に散々怒られたんだっけ、そう言えば…」
酒の滴と硝子の破片が、きらきらしながら飛び散るのが見えた。
男の、真っ青な顔色と、女を永久に失ったことを知る半ベソの表情が判った。
逃げ出す女の後ろ姿の、腰の引けた尻が醜いと思った。
皮膚と肉の裂ける感触と、後から追いかけてくる痛覚。頬に飛び散った自分の熱い血液。
「…俺とあんたの趣味が違うってだけだろ」
酒瓶を左腕で弾き、握り込んだ右拳が男の頬に飛んだ。
吹き飛んだ男の躯が壁に当たり、窓の硝子が落ちて割れる音が続いた。
「…あーあ。まァた顔出せねえ店が増えちまったじゃねーかよ」
右の拳をぷらぷらと振ると、左腕から血が滴った。
「ねえッ!悟浄、助けてくれてアリガト。アタシの為に怪我なんかして…。部屋に来てよ、手当するから」
先程ヒステリックな叫びを上げたとは思えない、女の甘ったるい声だった。
「…俺、あいつの趣味は判んねえから。悪ィんだけど、家で美人が待ってるのよね。…おい、先刻の勝ち分で、ここ、チャラにしといて!」
「お、…おう。」
「悟浄ォ!?」
最後に床に伸びてる男に一瞥をくれ、そのまま店を出た。
ぽつり、ぽつりと続く街灯に、影法師が回り込み、追いかける。
「…喉から手が出る程なんて、知ってんだよ。出せねえだけで」
差し伸べても、差し伸べても、撥ね除けられた自分の手。
只一度、正真正銘自分だけに向けられた、涙に濡れた眼差し。
血塗れて永遠に閉じられた、その眼。
腕を差し伸べ続け、命をも差し出そうとし、
その全てを受け取られることのなかった自分。
「…知ってんだよ、一番欲しいものなんか。そんなもん、怖くてもう作れないってこともさ」
明け方近くに叩き起こされ流血に驚いた八戒は、一瞬後には清潔なタオルで悟浄の腕をくるみ込んだ。
「…色々と、言いたいことはあるんですけどね。そこまでヘンな顔されるとちょっとね。…ちゃんと後日シメますからね?…ああ。取り敢えず、床に血を垂らさないで下さいね」
ヘンな顔とは何事だよ、と尋ねようとする悟浄に、八戒は先回りして、聞こえよがしの独り言を言った。
「…そっかー。僕、自虐的ってよく言われますけどね。自虐的なカオって、中々の見物だったんですね。いや、僕も次から鏡でも見てみましょうかねえ」
「八戒サン…?」
鼻白む傍から、抗生物質と鎮痛剤の錠剤と、蜂蜜入りのホットミルクのマグカップを差し出されては、喧嘩を売る気も買う気も起こらなかった。
「じいさん」
夕暮れの日差しの中、老人が振り向く。
「…あいつ、頼めんだろ?」
赤い、赤い夕日だった。
「お客人は…ひとりで経文を探しに行かれるか。あの妖怪の群の中に、挑もうと仰るか。命より大切なものなど、この世のどこにあると言われるのだ?」
悟浄は夕日に染められた自分の掌を見た。
まだ三蔵の体温を留めているような気がした。
「おいおい、別に死にに行く訳じゃねえんだけどな。必要なモノは取り戻す。無事戻って、ちゃんとあいつは受け取る。また俺達は旅を続ける。…な、それまで頼めるんだろ?」
老人の瞳が、逆光の中深い輝きを見せた。
「……お客人。まだあのお方を、只の旅の道連れと申されるのか?命掛けてまでしても、あのお方の為に魔の群に飛び込もうと…それでもお客人は…」
「じーさん、ストップ」
悟浄が掌を老人に向けた。
「俺さ、よく判らねんだわ。只の旅の道連れも、大切なものも、よく判らねえわ。とにかくまあ……言い辛いんだけど、仲間?放っとけないっしょ?仲間のタカラモノだっつーんだから」
砂漠の空に、落日が大きく赤く燃え上がる。
「取り戻す。それまで頼む。…ここはあいつには居心地いいと思うしな」
悟浄は老人の青い瞳に向かって言った。
「それでも紫の眼はいないようだな。青、緑、薄茶…。あいつは誰とも違うんだな」
「わたしは…お客人と同じ紅い色の瞳を、遙か昔に一度見たことがある。真っ白な素肌に紅い瞳。銀の髪の娘だった。普通には生まれず、普通には育たないと言われていた。それでも無事に成人した。…余りに昔過ぎて、今は生死も知れないが」
それでも、旅に連れ出せばよかった、と、嗄れた声で続けた。
「一度助けた命、匿った命。むざとなくすようなことは致しますまい。安全に、お守りしましょう。必ず生かしましょう」
「頼むわ」
悟浄は同じ言葉を繰り返した。
「あいつのこと、頼むわ。…あいつを探しに、もうふたりここに来るかもしれねェ。そいつ等のこともヨロシクな。ついでに、俺が妖怪達のトコに向かったって伝えてくれると助かるんだがな」
「その方達にお逢い出来たら、必ずお伝えしましょう」
大切なものなど、もう作らない筈だった。
顧みられることを願ってしまうものなど、失うのが恐ろしいものなど、
二度とは作らない筈だった。
触れるのを躊躇ったのは、何よりも自分を守りたかったからの筈だった。
胸に落ちた重みと、三蔵の触れた肩の熱さを思い返す。
自らの掌で感じた、三蔵の体温を思い返す。
「喉から手の出る思い…ね」
伸ばした手に白い腕が差し出された瞬間、胸に痛みを感じたことに、漸く気付いた。
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