悟浄は以前、怪我の失血で意識を失った三蔵の衣類を脱がせたことがあった。手当の為に法衣の帯を繙き、血塗れの黒衣を切り裂きながら引き剥がした。
乾いた血液と、生々しい傷口。
体中に散らばり残る、薄桃色に残る、戦闘の古傷。
淡い色の胸元の突起。
血の気を失った三蔵の膚の上で、彩りは鮮明に悟浄の目に焼き付けられた。
細身の骨格に、無駄のない筋肉。それを覆う滑らかな膚。
脇腹、肋、鳩尾、鎖骨 。
薄らと蒼い陰影に、悟浄の視線が惹き付けられた。普段は首元まで黒衣に覆い隠された、蒼白さだった。
黒衣を切り裂くごとに現れる膚が、誘った。
指がベタベタしている。触れれば、乾きかけの血がまた三蔵の膚を汚してしまうかも知れない。そう思いながら、悟浄の指が宙を彷徨い ――――
紫暗の瞳に出逢って身動き出来なくなった。
意識を取り戻した三蔵が悟浄をまっすぐに見つめ、また眠りに落ちる。ほんの一瞬の覚醒に、悟浄は全て見透かされたような気がした。知られたと思った。
触れようとした欲望と、触れられなかった自分と。
悟浄はそれ以来、紫暗の瞳の力強さが少し苦手になった。
「お客人。急にご無理をさせるのは…」
「そうも言ってらんなくてね。色々やっかいなお客さんが多いもんだから、さっさと元通りになってくれないと、……命も危ういんだわ」
老人に向かって答えた言葉に、三蔵を連れてきた娘が、息を呑んだ。
「こいつの着てた服ってある?経文…びらびらっとした奴とかも…一緒に無かったか?」
「身に付けていた物と思しき物は、拾い集めましたが。経文、聖典らしき物は見あたりませんでしたな」
獅子をも眠らせる香を焚き、妖怪達の意識を奪い…その時始めて異国の民達は、襲われていたのが男性だと気付いたという。そして散らばる衣服が聖職者のものであると、異なる神を信じる者にも、すぐに察しがついたとも。
畏れ多いことを
それでも妖怪達の意識を失わせるだけで、命は奪わなかった。
「我らは見てくれがこれであるからの」
「長」と呼ばれた老人は、自らの青い瞳と娘の金髪を指さし笑った。
「異国の地にあっては異相が目立ち過ぎて、どこでもすぐに排斥される命運なのだ。それ故、中庸を保ち、人と和を為すことで生き延びて来た。殺戮は殺戮を呼び、それは人数の少ない我らには即血を絶やすことに繋がる。 ―――― それも限界に来ておるがな。こうも血が濃くなっては、命は細って行くばかり」
「何とかして故郷の国へ向かうのは。不可能なんだ?」
「術はあったとしてもな」
長はまた静かに笑い、娘の肩に掌を置いた。
「お客人」
話を打ち切る強さで悟浄に向き直る。
「このお方は、命を狙われておると仰るのか。何の為に命を狙われ、また今後も狙われ続けるのか…それは判らぬが、我らは妖怪よりこの方をお助けしてから、匿うて来た。それをむざむざと殺させる気は起こらぬ」
一旦止める。
「経文とやら、もしやそれを探しに、妖怪の元へ赴こうと?やはりそうなのですな。このお方と、取り戻しに行こうと」
真剣な悟浄の瞳が、一瞬後に和らぐ。
「こいつの大事なモンだからな。どうしても妖怪の手に渡す訳にはいかねえんだよ。三蔵が動かせるんなら、今すぐにでも向かいたい」
「無茶な!」
「全く、無茶だよなあ。でも、そうしたがるんだろうからなあ、こいつは。…だろ?」
いつの間にか悟浄を見ていた三蔵と目が合い、低い声で問いかけ笑った。
紫の瞳が大きく見開かれたが、今度は恐慌の色は浮かばなかった。
記憶がない。
人の言葉の意味は理解出来るが、それに返事をしようとする自分の言葉は、単語がフラッシュバックするように浮かび上がるだけで、組み立てようとすると途端に秩序を失う。
音を発しようとすると、躯がすくみ上がって喉がつまる。
何かを問われても、パニックに襲われながら、ただ首を振るしか意志を伝える術がなかった。漸く、怪我の手当をしてくれた娘と、何度か顔を合わせたこの老人、天幕の群に集う穏やかな笑顔の人々に慣れて来た所だった。
娘に鏡を見せられた。
自分の髪の色が娘や人々と同じ色をしていることに気付き、三蔵は心のどこかが酷く安らいだ。何故自分が安らいだのかも判らず、そして自分が安らぎを感じたこと自体にも気付きはしなかったが。
紅い髪の男に躯の自由を奪われ、三蔵は闇雲に躯を強張らせた。恐ろしかった。
助けを呼ぼうと悲鳴を上げかけ、また喉が強張った。
苦しかった。
痛みを思い出した。
確か、喉を絞められたのだ。
野卑な腕が、爪を立てつつ自分の喉を締め上げた。
苦痛の呻きしか洩らせなかった。
紫色の指の痕は、娘がしゃらしゃらと音の鳴る首飾りで隠してくれた。手首と足首に残った縄目の痣と擦過傷にも、軽い金の輪を重ねてくれた。
だから醜い傷痕は、集落の人々の目にはさほど触れなかっただろう。それでも安心出来ずに、三蔵は手当を受けた後もきつく毛布を自分の身に巻き付けていた。
娘はそんな三蔵の姿を見て、自分の纏っていた薄いヴェールを頭から被せてくれた。
世界が薄らと線と色を和らげた。
素肌に触れる世界は、滑らかなヴェール越しになった。
ヴェールの内側は、いつでもほの暖かな自分の体温と、娘の持たせてくれた匂い袋の甘い香りで満たされていた。
記憶もなく、意志を伝える術がなくても、穏やかな人々の中に守られ溶け込める自分に、三蔵は酷く安堵した。
紅い髪の男が、三蔵の視界に鮮烈に現れるまでは。
娘に誘われ、帳を上げて天幕に足を踏み入れた瞬間、男は眩しそうに三蔵を見た。外光に射られたその瞳が、紅玉の様に輝きを返した。
柔らかな世界が紅い輝きに切り裂かれ、男にきつく戒められた躯が、数日前の恐怖を呼び起こした。
太陽が、ひたすら眩しかった。
朦朧とした意識の中で、引き裂く痛みが、開いた足の間から絶え間なく続いていた。手首と足首がきつく繋がれ、躯の自由が利かなかった。砂漠の太陽の、全てを暴き立てる残酷さと、灼け付く痛み。躯の内から内臓を滅茶苦茶に揺すり上げられる、嘔吐感。自分の吐瀉物と、また別の青臭い欲望の匂い。
抑え込む、凶暴な腕。引き裂く爪。突き立てられる牙。嘲笑と、憎しみの叫び。
幾つもの眼が。
嘲笑う声が。
身に伸びて来た長い爪が。
蘇った記憶の恐怖に脱力する三蔵の躯を、紅い髪の男は強く抱き込んだ。
滑らかな筈のヴェールが、押し付けられて頬にざらついた。自分以外の体温が、凶暴な勢いで三蔵の身に迫る。万力の様な腕に身動きが取れなくなる。
三蔵の頭を押さえ付けた掌から、ふと力が抜けた。
「睨み付けて怒鳴れよ」
耳元で低い声が笑った。
「お前さあ…」
軽やかで、柔らかな声音だった。背に伝わる男の掌の温度が、そうっと移った。自分の背が、ゆっくりと撫でられていることに、三蔵は漸く気付いた。
「俺のこと、思い出せよ」
男が泣いているのではないかと、三蔵は思った。
長と男の会話は、静かに続いていた。
会話の中、時折男は三蔵の背に回す腕に力を込める。金糸の髪を肩口に抑え込んだ、その掌を微かに動かす。指を、金糸に潜らせる。
娘が三蔵の手当をした時の掌と似ていた。
探る様に、痛みを与えぬ様に。暖かみだけを伝える掌だった。
『三蔵』
何度も呼ぶそれは ―――― 人の名か。
自分の、名、なのか。
組み立てられぬ言葉が、三蔵の脳裏を巡った。
誰 ダ !? オマエ ? …オ・レ ?
紅イ ダ・レ
オレ 我 自分 私 己 ハ・?
紅 …瞳。 オ・レ ヲ・?
我 知・? ???????? 我 我 我 我
我 知ッ・テ・? 紅 紅 紅 ?????? ―――― !
低い声が、軽やかに「三蔵」と発音する。
「全く…無茶だよなあ。……でも、そうしたがるんだろうからなあ、こいつは。…だろ?」
三蔵の凝視に紅い男が気付いた。
紅玉の瞳が尋ねるように瞬き、男の唇が笑みの形に引き上げられた。白い歯が見えた。
覚えのある、苦みの強い煙草の香りがした。
「全部忘れっちまっても。意地っ張りの子供みてーな所は変わってねえんだな」
突然、悟浄は笑った。
老人も娘も、悟浄の腕の中の三蔵も、急な笑い声に驚く。
「…そりゃ。悔しいよなあ。天上天下唯我独尊の超生臭鬼畜坊主サマが、自分のことも判らないままで怯えきって過ごしてるんだからなあ。悔しくて悔しくて、しょうがないんだろうなあ!」
悟浄の腕の中の細い躯。
つい先程までは、躯を硬直させ、恐怖に引きつった表情を浮かべていた貌。
それが、急に笑われて、茫然と悟浄を見返していた。
目元まで落ちている、金糸の前髪。
睫毛、眉の線まで、濃い金色をしている。
心の奥底までを射抜くような、そんな力を持っている筈の瞳が
茫然と悟浄を見返している。
笑われたことに驚き唇が薄く開いた。
正しく「声も出ない」といった表情で…掠れた悲鳴を上げる為でなく、表情を浮かべる為に開かれた唇に、柔らかな花びらが花開く瞬間を、悟浄は思った。
「…ンだよ。笑われたら怒れよ。何マジ顔してんだよ、三蔵」
悟浄の腕の中で三蔵が背を撓らせた。逃げ出すのではなく、悟浄の顔に見入る為に背を撓らせる。弾力のある筋肉の動きが腕に伝わる。
「怒って見せろよ、三蔵サマ」
囁くような声が、笑いを含み三蔵に向けられた。
からかうような笑みは、ベッドの上で女に向けられる時よりも甘さがこもった。
『俺のこと、思い出せよ』
願う思いが、悟浄の声音に滲んだ。
「驚いてる方がまだマシだぜ。…怖がるのとかさ、お前には似合わねえよ。…美人台無し」
揶揄する抑揚と、真剣な紅い眼差し。
三蔵が紫色の瞳をまっすぐに返した。
悟浄には、ヴェール越しのその瞳が、急に物足りなく感じられた。
心の奥底まで見透かされて欲望が知られてしまってもいいから、それでも強い光を浮かべた瞳が見たくなった。
三蔵の瞳を。
躯に回した腕を、そっと外す。
ヴェールの端を、指先で摘む。それは薄く透けながら、悟浄の指先に絡むとはらりと床に落ちた。
落ちる最中に空気を孕み、羽毛のように舞う。
三蔵が息を吸い込んだ。
ヴェールの内の暖かな空気ではなく、目の前の紅い男の煙草の匂いの混じった空気だった。
一瞬落ちた睫毛が瞳に薄暗く影を落とし、また見瞠く。
三蔵が、間近で悟浄を見つめる。
紫玉。
雨に濡れた、紫色の翡翠石の深み。
光彩に放射状に走る、アメシストの煌めき。
映り込む紅い輝きは、艶やかな髪と紅玉の瞳。
三蔵が微かに身じろぎをし、悟浄の肩に掌を触れた。
悟浄には、それが燃えるように熱く感じられた。
another country
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