akai tori nigeta -2-
 三蔵は強い。
 人間としては破格の戦闘能力と、三蔵法師としての法力。
 まっすぐに紫暗の瞳が向けられると、心の奥底までを見透かされそうで、時折悟浄は目を逸らす。

 悟浄は以前、怪我の失血で意識を失った三蔵の衣類を脱がせたことがあった。手当の為に法衣の帯を繙き、血塗れの黒衣を切り裂きながら引き剥がした。
 乾いた血液と、生々しい傷口。
 体中に散らばり残る、薄桃色に残る、戦闘の古傷。
 淡い色の胸元の突起。
 血の気を失った三蔵の膚の上で、彩りは鮮明に悟浄の目に焼き付けられた。
 細身の骨格に、無駄のない筋肉。それを覆う滑らかな膚。
 脇腹、肋、鳩尾、鎖骨    
 薄らと蒼い陰影に、悟浄の視線が惹き付けられた。普段は首元まで黒衣に覆い隠された、蒼白さだった。

 黒衣を切り裂くごとに現れる膚が、誘った。 

 指がベタベタしている。触れれば、乾きかけの血がまた三蔵の膚を汚してしまうかも知れない。そう思いながら、悟浄の指が宙を彷徨い ――――
 紫暗の瞳に出逢って身動き出来なくなった。
 意識を取り戻した三蔵が悟浄をまっすぐに見つめ、また眠りに落ちる。ほんの一瞬の覚醒に、悟浄は全て見透かされたような気がした。知られたと思った。

 触れようとした欲望と、触れられなかった自分と。

 悟浄はそれ以来、紫暗の瞳の力強さが少し苦手になった。

 悟浄の腕の中に、三蔵がいる。
 脱力し、為されるがままにその頭を悟浄の肩に預けているが、首筋に触れる吐息が怯えに震えていた。
「睨み付けて怒鳴れよ。お前そのまんまじゃサルより馬鹿じゃん。役立たずは置いてくとか、普段あれ程偉そうにしてるクセによ」
 触れたいと願った躯が、今は悟浄の腕の中にある。
「お前さあ……。チョーシ狂うから、さっさと思い出せよ」
 強く抱き込みながら、悟浄は囁く。
「俺のこと、思い出せよ」
 願うように囁く。

「お客人。急にご無理をさせるのは…」
「そうも言ってらんなくてね。色々やっかいなお客さんが多いもんだから、さっさと元通りになってくれないと、……命も危ういんだわ」
 老人に向かって答えた言葉に、三蔵を連れてきた娘が、息を呑んだ。
「こいつの着てた服ってある?経文…びらびらっとした奴とかも…一緒に無かったか?」
「身に付けていた物と思しき物は、拾い集めましたが。経文、聖典らしき物は見あたりませんでしたな」

 獅子をも眠らせる香を焚き、妖怪達の意識を奪い…その時始めて異国の民達は、襲われていたのが男性だと気付いたという。そして散らばる衣服が聖職者のものであると、異なる神を信じる者にも、すぐに察しがついたとも。
      畏れ多いことを
 それでも妖怪達の意識を失わせるだけで、命は奪わなかった。

「我らは見てくれがこれであるからの」
 「長」と呼ばれた老人は、自らの青い瞳と娘の金髪を指さし笑った。
「異国の地にあっては異相が目立ち過ぎて、どこでもすぐに排斥される命運なのだ。それ故、中庸を保ち、人と和を為すことで生き延びて来た。殺戮は殺戮を呼び、それは人数の少ない我らには即血を絶やすことに繋がる。 ―――― それも限界に来ておるがな。こうも血が濃くなっては、命は細って行くばかり」
「何とかして故郷の国へ向かうのは。不可能なんだ?」
「術はあったとしてもな」
 長はまた静かに笑い、娘の肩に掌を置いた。

「お客人」
 話を打ち切る強さで悟浄に向き直る。
「このお方は、命を狙われておると仰るのか。何の為に命を狙われ、また今後も狙われ続けるのか…それは判らぬが、我らは妖怪よりこの方をお助けしてから、匿うて来た。それをむざむざと殺させる気は起こらぬ」
 一旦止める。
「経文とやら、もしやそれを探しに、妖怪の元へ赴こうと?やはりそうなのですな。このお方と、取り戻しに行こうと」
 真剣な悟浄の瞳が、一瞬後に和らぐ。
「こいつの大事なモンだからな。どうしても妖怪の手に渡す訳にはいかねえんだよ。三蔵が動かせるんなら、今すぐにでも向かいたい」
「無茶な!」
「全く、無茶だよなあ。でも、そうしたがるんだろうからなあ、こいつは。…だろ?」
 いつの間にか悟浄を見ていた三蔵と目が合い、低い声で問いかけ笑った。
 紫の瞳が大きく見開かれたが、今度は恐慌の色は浮かばなかった。

 三蔵は声を聞いていた。
 自分の躯をきつく戒める腕に恐怖に襲われながらも、悟浄の声音を聞いていた。

 記憶がない。

 人の言葉の意味は理解出来るが、それに返事をしようとする自分の言葉は、単語がフラッシュバックするように浮かび上がるだけで、組み立てようとすると途端に秩序を失う。
 音を発しようとすると、躯がすくみ上がって喉がつまる。
 何かを問われても、パニックに襲われながら、ただ首を振るしか意志を伝える術がなかった。漸く、怪我の手当をしてくれた娘と、何度か顔を合わせたこの老人、天幕の群に集う穏やかな笑顔の人々に慣れて来た所だった。
 娘に鏡を見せられた。
 自分の髪の色が娘や人々と同じ色をしていることに気付き、三蔵は心のどこかが酷く安らいだ。何故自分が安らいだのかも判らず、そして自分が安らぎを感じたこと自体にも気付きはしなかったが。

 紅い髪の男に躯の自由を奪われ、三蔵は闇雲に躯を強張らせた。恐ろしかった。
 助けを呼ぼうと悲鳴を上げかけ、また喉が強張った。
 苦しかった。
 痛みを思い出した。

 確か、喉を絞められたのだ。
 野卑な腕が、爪を立てつつ自分の喉を締め上げた。
 苦痛の呻きしか洩らせなかった。
 紫色の指の痕は、娘がしゃらしゃらと音の鳴る首飾りで隠してくれた。手首と足首に残った縄目の痣と擦過傷にも、軽い金の輪を重ねてくれた。
 だから醜い傷痕は、集落の人々の目にはさほど触れなかっただろう。それでも安心出来ずに、三蔵は手当を受けた後もきつく毛布を自分の身に巻き付けていた。
 娘はそんな三蔵の姿を見て、自分の纏っていた薄いヴェールを頭から被せてくれた。
 世界が薄らと線と色を和らげた。
 素肌に触れる世界は、滑らかなヴェール越しになった。
 ヴェールの内側は、いつでもほの暖かな自分の体温と、娘の持たせてくれた匂い袋の甘い香りで満たされていた。
 記憶もなく、意志を伝える術がなくても、穏やかな人々の中に守られ溶け込める自分に、三蔵は酷く安堵した。

 紅い髪の男が、三蔵の視界に鮮烈に現れるまでは。

 娘に誘われ、帳を上げて天幕に足を踏み入れた瞬間、男は眩しそうに三蔵を見た。外光に射られたその瞳が、紅玉の様に輝きを返した。
 柔らかな世界が紅い輝きに切り裂かれ、男にきつく戒められた躯が、数日前の恐怖を呼び起こした。

 太陽が、ひたすら眩しかった。
 朦朧とした意識の中で、引き裂く痛みが、開いた足の間から絶え間なく続いていた。手首と足首がきつく繋がれ、躯の自由が利かなかった。砂漠の太陽の、全てを暴き立てる残酷さと、灼け付く痛み。躯の内から内臓を滅茶苦茶に揺すり上げられる、嘔吐感。自分の吐瀉物と、また別の青臭い欲望の匂い。
 抑え込む、凶暴な腕。引き裂く爪。突き立てられる牙。嘲笑と、憎しみの叫び。
 幾つもの眼が。
 嘲笑う声が。
 身に伸びて来た長い爪が。

 蘇った記憶の恐怖に脱力する三蔵の躯を、紅い髪の男は強く抱き込んだ。 
 滑らかな筈のヴェールが、押し付けられて頬にざらついた。自分以外の体温が、凶暴な勢いで三蔵の身に迫る。万力の様な腕に身動きが取れなくなる。
 三蔵の頭を押さえ付けた掌から、ふと力が抜けた。
「睨み付けて怒鳴れよ」
 耳元で低い声が笑った。
「お前さあ…」
 軽やかで、柔らかな声音だった。背に伝わる男の掌の温度が、そうっと移った。自分の背が、ゆっくりと撫でられていることに、三蔵は漸く気付いた。
「俺のこと、思い出せよ」
 男が泣いているのではないかと、三蔵は思った。

 長と男の会話は、静かに続いていた。
 会話の中、時折男は三蔵の背に回す腕に力を込める。金糸の髪を肩口に抑え込んだ、その掌を微かに動かす。指を、金糸に潜らせる。
 娘が三蔵の手当をした時の掌と似ていた。
 探る様に、痛みを与えぬ様に。暖かみだけを伝える掌だった。
『三蔵』
 何度も呼ぶそれは ―――― 人の名か。
 自分の、名、なのか。
 組み立てられぬ言葉が、三蔵の脳裏を巡った。

 誰  ダ  !?  オマエ  ?   …オ・レ  ?  
 紅イ  ダ・レ
 オレ  我  自分  私  己  ハ・?

 紅  …瞳。  オ・レ   ヲ・?
 我  知・?  ????????  我  我  我  我  

 我  知ッ・テ・?  紅  紅  紅  ??????   ―――― !

 低い声が、軽やかに「三蔵」と発音する。
「全く…無茶だよなあ。……でも、そうしたがるんだろうからなあ、こいつは。…だろ?」
 三蔵の凝視に紅い男が気付いた。
 紅玉の瞳が尋ねるように瞬き、男の唇が笑みの形に引き上げられた。白い歯が見えた。
 覚えのある、苦みの強い煙草の香りがした。

「…漸く眼ぇ合わせてくれたな」
 茫然と自分を見る三蔵の紫色の瞳が、悟浄は無性に嬉しかった。
 記憶が戻った様には見えない。思い出したのならば、三蔵の躯にこれだけ触れている悟浄は、即座に殴り倒された筈だ。
 それでも三蔵は悟浄を見た。
 恐怖を与える見知らぬ男として眼を逸らされるのではなく、今三蔵の目の前に存在する男として、明瞭りと認識されている。
 三蔵の唇が何かを問おうとするように開きかけ、微かに空気の洩れる音がした。
「 ―――― 無理、すんな」
 悟浄は目の前の濡れた瞳に向かって、柔らかな声をかけた。語尾が甘く消えたことに、悟浄は自分でも気付かない。
 その言葉に紫玉が揺れた。必死に何かを伝えようとするように、苦しげに眉根を寄せては唇が動き……
「 ―――― ぁぁぁぁぁッ………!」
 三蔵の表情は、今にも泣き出しそうな子供めいていた。もどかしがり、悔しがり、それを露わにする子供。
 三蔵の喉から、悲しげな笛の音が洩れた。

「全部忘れっちまっても。意地っ張りの子供みてーな所は変わってねえんだな」
 突然、悟浄は笑った。
 老人も娘も、悟浄の腕の中の三蔵も、急な笑い声に驚く。
「…そりゃ。悔しいよなあ。天上天下唯我独尊の超生臭鬼畜坊主サマが、自分のことも判らないままで怯えきって過ごしてるんだからなあ。悔しくて悔しくて、しょうがないんだろうなあ!」
 悟浄の腕の中の細い躯。
 つい先程までは、躯を硬直させ、恐怖に引きつった表情を浮かべていた貌。
 それが、急に笑われて、茫然と悟浄を見返していた。
 目元まで落ちている、金糸の前髪。
 睫毛、眉の線まで、濃い金色をしている。
 心の奥底までを射抜くような、そんな力を持っている筈の瞳が

      茫然と悟浄を見返している。

 笑われたことに驚き唇が薄く開いた。
 正しく「声も出ない」といった表情で…掠れた悲鳴を上げる為でなく、表情を浮かべる為に開かれた唇に、柔らかな花びらが花開く瞬間を、悟浄は思った。
「…ンだよ。笑われたら怒れよ。何マジ顔してんだよ、三蔵」
 悟浄の腕の中で三蔵が背を撓らせた。逃げ出すのではなく、悟浄の顔に見入る為に背を撓らせる。弾力のある筋肉の動きが腕に伝わる。
「怒って見せろよ、三蔵サマ」
 囁くような声が、笑いを含み三蔵に向けられた。
 からかうような笑みは、ベッドの上で女に向けられる時よりも甘さがこもった。

 『俺のこと、思い出せよ』
 願う思いが、悟浄の声音に滲んだ。

「驚いてる方がまだマシだぜ。…怖がるのとかさ、お前には似合わねえよ。…美人台無し」
 揶揄する抑揚と、真剣な紅い眼差し。
 三蔵が紫色の瞳をまっすぐに返した。
 悟浄には、ヴェール越しのその瞳が、急に物足りなく感じられた。
 心の奥底まで見透かされて欲望が知られてしまってもいいから、それでも強い光を浮かべた瞳が見たくなった。
 三蔵の瞳を。
 躯に回した腕を、そっと外す。
 ヴェールの端を、指先で摘む。それは薄く透けながら、悟浄の指先に絡むとはらりと床に落ちた。
 落ちる最中に空気を孕み、羽毛のように舞う。

 三蔵が息を吸い込んだ。
 ヴェールの内の暖かな空気ではなく、目の前の紅い男の煙草の匂いの混じった空気だった。
 一瞬落ちた睫毛が瞳に薄暗く影を落とし、また見瞠く。
 三蔵が、間近で悟浄を見つめる。

 紫玉。
 雨に濡れた、紫色の翡翠石の深み。
 光彩に放射状に走る、アメシストの煌めき。
 映り込む紅い輝きは、艶やかな髪と紅玉の瞳。

 三蔵が微かに身じろぎをし、悟浄の肩に掌を触れた。
 悟浄には、それが燃えるように熱く感じられた。













- 続く -



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