乾き切った熱い風が、砂埃を舞い上げる。その霞んだ向こう側に、三蔵がいた。
強い日差しを反射する白い異国の服を纏い、薄いヴェールが全身を覆い隠す。金鎖や琺瑯、硝子を連ねた装飾品が、風に揺れてはしゃらしゃらと音を立てていた。
風に遊ぶ金糸が、白茶けた砂漠の光に妙に似合う。
「三蔵!!」
叫び声に訝しげに振り向き、その瞳が悟浄を捉えた。
どこにあっても、この瞳だけは見間違えることはないだろう。悟浄のそう信じる紫の宝玉のような瞳が、ヴェールの隙間から 恐怖に歪んだ。
桃源郷には珍しい、金の髪、青い瞳の人々。
商隊として旅を続ける途中で盗賊に荷を奪われ、交易の仲介を営みとして流浪するしかなくなった者達だという。決まった住居もなくさすらいを続けるという、キャラバンの成れの果ての人々が、近くに暫く留まっているのだという。
妖怪が放浪の民を装うことも考えられると、八戒達には言づてを頼み、悟浄は単独でそこへ向かった。丸3日かかって悟浄が到着出来たのは、かなり幸運だったのだろう。砂漠の中、隠れるようにその天幕の集落はあった。
大小の天幕と、ゆったりとした異国の衣服を纏った人々。ターバンやヴェールから透かし見えるその髪は、金や茶色の明るい色をしていた。
その中に三蔵はいた。
ひとつの天幕の前に座る三蔵に、金髪の娘が話しかける。そのまま立ち上がろうとした三蔵がふらつき、娘が躯を支えるように立たせてやる。
叫ぶ悟浄の前に、半月型の刀を構えた男達が立ちはだかり、三蔵の姿が見えなくなる。
「…ちょーっと余裕なくってさ。今邪魔されっと、手加減とか出来ないんだけどぉ?」
垣間見た三蔵の様子に、悟浄は焦燥に駆られた。
怯える瞳だった。
目の前でぎらつく半月刀を向ける男達からは妖気は全く感じられなかったが、それでも三蔵を奪回する為ならば、殺し尽くしても構わないと思った。
「死んでもいいんだったら、来なよ」
言うが早いか、悟浄の手に錫杖が現れる。
走る鎖の先で凶刃が白く光り、一瞬気圧された男達が刀を振りかざして悟浄に向かって殺到した。
三蔵は妖怪の術にでもかけられていたのか。
見たこともない衣服に包まれ身を隠されていたが、怪我をしているのではないか。
先程三蔵が自分に向けられた眼が明らかに怯えていたのが、悟浄の気にかかった。
刃を刃で弾き飛ばす度、激しい金属音と共に火花が飛び散った。悟浄の鎖に絡め取られた半月刀が、回転しながら天高くに飛ぶ。
余りにも、一方的過ぎる。
最初の一人に当たり勝ってから、悟浄は用心して武器だけを奪うように注意していた。通常の商人に比べれば、指揮を取り陣を張るこの男達の戦闘能力は高い方だろう。しかし、余りにも普通の人間の戦闘だった。
妖怪とは本当に無縁ということもあり得るが、三蔵だけは取り戻さねばならない。
そう思う傍から、刀を奪われた男が躯ひとつで体当たりして来た。
寸前で飛びすさり、背を蹴り倒す。
そのまま躯を返すと、別の男が真上から落とす半月刀を、手刀で叩き折った。
「やり辛え…キリがねェしな」
艶やかな紅い髪が、汗に貼り付いた。
嫌な汗だ。
「……三蔵ーッ!」
いつかのように、妖怪に操られた人々なのかも知れない。
「三蔵 ッ!」
腕を折られた男が、無事な方の腕で刀を拾うとまた襲いかかって来た。
「さんぞ ッ!」
怯える瞳。
自分に向けられた。
誰かが号令をかけたのか。俄に男達が隊列を整えて後退した。
自分の躯の動きが急激に鈍ったことに気付いた悟浄は、後からそう思った。
視界が揺らぎ、膝ががくりと砂に落ちる。
「…なッ!?」
片手で砂を掴みながら、錫杖を真横に振れば誰かの胴に当たって吹き飛ばすのを感じる。
が、そこまでだった。
ぐらりと傾いた上半身が、熱い砂の上に横倒しになる。
口に入った砂が歯に嫌な感触を伝えてくるが、舌が痺れて味を感じない。腕も足も感覚が麻痺して来た。息苦しい。
片目を眇めて周囲を見回すと、頭と口元をマントで覆った老人が、煙の上がる香炉を振りながら近付く所だった。
その後ろから、誰かに躯を抱えられた三蔵が歩み寄って来る。ヴェールから垣間見える瞳が、悟浄を見ない。
「……さ…んぞ……」
視界が薄暗くなり、老人が自分を上から覗き込んでいることに気付いた。
深い青い色の瞳が、賢者の光で自分を見下ろす。
じじーじゃねえっつの
俺の探してんのは、もっと若い、紫の瞳の美人だっつのよ
ほら、どいてよ
すぐ傍にいるのに、それじゃ見えないじゃない
ったく、お高いわがまま美人ったら、折角迎えに来てやってるってのに…
ほら、たまにはにっこり笑って見せろよ
老人は、砂埃にまみれた、若くて紅い髪の男が、合わない視点のままで苦笑ったのを見た。
「……さ…んぞ……迎え・に……」
記憶をなくし、自分が何者かも判らず…
そんな中で躯と心を押し潰し叩き壊されるような目に遭ったのだと。
「そんな…ことで、ぶっ壊れるような奴じゃ……!」
掴む掌から、しがみつくように力が抜けて行く。
信じ切れずに漏れる呻きは、天へ求める救いに似ていた。
声が聞こえた。天幕の外からの娘の声だった。
戸口に降りた布地が捲り上げられ、天幕の中に強い光が差し込む。砂漠の太陽の、何もかもを漂泊する、白い光だ。
そのただ中に三蔵はいた。
柔らかな絹地の上衣に、鮮やかな刺繍で縫い取られた上着を重ね、薄いヴェールをきつく握り込んで躯に巻き付けている。
しゃら…
金の鎖が、歩みに揺れて音を立てた。
「…三蔵!」
天幕の中に響いた声に、三蔵が全身を強張らせた。目の前の悟浄を、禍々しい何かであるかのような目で見る。
三蔵は咄嗟に退こうとするが天幕の帳が丁度閉じられる。慌てて周囲に目をやり、紅い髪の男の他に、身の回りの世話をしていたらしい娘と、見覚えのある老人の顔を見つけ安堵の吐息を漏らした。
再び悟浄に戻した眼は、やはり怯えの色を帯びている。
「……三蔵」
ゆっくりと手を差し出して名前を呼ぶと、三蔵の躯がまた強張った。
「冗談だろ。本当に俺のこと、わかんない?全部忘れちまったっての?俺じゃなくても、悟空は?八戒は?」
上げられる名前には反応せずに、三蔵の眼は目の前に近付く悟浄の掌に釘付けになった。
三蔵の視界の端に、紅い髪が揺れた。その上の顔に、二つの紅玉の瞳がある。そして目の前には、今にも自分の躯に触れて来そうな、掌。
手。
掌。
腕。
三蔵の唇が、呼吸にわなないた。
近付く。
触れられる。
掴まえられる。
呼吸が早まり、まともに息を吐くことが出来なくなる。過酸素の息苦しさに、三蔵のこめかみの血管がずきずきと痛みを主張する。
節の目立つ長い指と爪、大きな掌が三蔵の視界を占めた。
後ずさりしようとした三蔵を、娘が後ろから支えた。娘の庇うような腕と心配気な表情を見た悟浄は、自分が酷く三蔵を追い詰めていることに気付き、頬に触れようとした手を一瞬止めた。
途端に、三蔵が息を吐いた。
見知らぬ男の腕が迫る恐怖が、一旦留まったことへの安堵の吐息だった。
「…ヒ……ぅぁ……ッ!?」
悟浄は三蔵の躯をきつく抱き締めた。
「……ひあ……ッ……!!!」
悟浄の腕の中で、三蔵は痙攣するように全身を硬直させる。恐怖にその瞳が限界まで開かれ、叫びの形を作る口からは、ただ枯れた空気だけが漏れ続ける。
「……ハァッ……ぁぁぁぁぁ……!!」
声にならない声が、悟浄には躯を通して聞こえたような気がした。
仰け反る躯で、全身で拒絶を表され、絶望に枯れた絶叫を感じながらも、悟浄は腕を解かなかった。
ヴェールにくるまれた細身の躯に、自分のことを無理矢理にでも思い出させたかった。
「…なあ。ヒトの顔見て怖がるなんて、あんまりじゃん」
抱き締めた耳元で、呟く。
「今すぐ思い出せよ。でもって俺のことなんか、何時も通り銃で撃ち抜きゃいいじゃん。今なら2、3発なら当てさせてやるからさ」
腕の中で三蔵の躯がゆっくりと力を失って行く。血の気のひいた真っ白な顔が、ぐったりと背に落ちかかるのを、暖かな掌で支えてやる。
恐怖に満ちた瞳。
悟浄は三蔵の躯を抱き直した。三蔵の顔が恐怖に歪むのを見るのが辛く感じられて、自分の肩口に顔を凭れさせる。緊張に噛み締めた歯から、震える息が漏れて悟浄の首にかかった。
「 頼むよ。俺のこと、そんな目で知らない奴みたいに見んなよ」
薄暗い天幕の中、悟浄は三蔵を抱き締めて立ち尽くした。
another country
†
index