akai tori nigeta -1-
 砂漠の、蜃気楼かと思った。

 乾き切った熱い風が、砂埃を舞い上げる。その霞んだ向こう側に、三蔵がいた。
 強い日差しを反射する白い異国の服を纏い、薄いヴェールが全身を覆い隠す。金鎖や琺瑯、硝子を連ねた装飾品が、風に揺れてはしゃらしゃらと音を立てていた。
 風に遊ぶ金糸が、白茶けた砂漠の光に妙に似合う。
「三蔵!!」
 叫び声に訝しげに振り向き、その瞳が悟浄を捉えた。
 どこにあっても、この瞳だけは見間違えることはないだろう。悟浄のそう信じる紫の宝玉のような瞳が、ヴェールの隙間から     恐怖に歪んだ。

 砂漠のただ中、三蔵は戦闘中に囚われた。交易路の中継地点にある大きな街は妖怪すらも紛れ込ませ、杳として行方は知れなかった。
 手分けして捜索に当たる中、悟浄は偶々遠い異国の放浪の民の噂を聞きつけた。

 桃源郷には珍しい、金の髪、青い瞳の人々。

 商隊として旅を続ける途中で盗賊に荷を奪われ、交易の仲介を営みとして流浪するしかなくなった者達だという。決まった住居もなくさすらいを続けるという、キャラバンの成れの果ての人々が、近くに暫く留まっているのだという。
 妖怪が放浪の民を装うことも考えられると、八戒達には言づてを頼み、悟浄は単独でそこへ向かった。丸3日かかって悟浄が到着出来たのは、かなり幸運だったのだろう。砂漠の中、隠れるようにその天幕の集落はあった。
 大小の天幕と、ゆったりとした異国の衣服を纏った人々。ターバンやヴェールから透かし見えるその髪は、金や茶色の明るい色をしていた。
 その中に三蔵はいた。
 ひとつの天幕の前に座る三蔵に、金髪の娘が話しかける。そのまま立ち上がろうとした三蔵がふらつき、娘が躯を支えるように立たせてやる。

「三蔵!?」

 叫ぶ悟浄の前に、半月型の刀を構えた男達が立ちはだかり、三蔵の姿が見えなくなる。
「…ちょーっと余裕なくってさ。今邪魔されっと、手加減とか出来ないんだけどぉ?」
 垣間見た三蔵の様子に、悟浄は焦燥に駆られた。
 怯える瞳だった。
 目の前でぎらつく半月刀を向ける男達からは妖気は全く感じられなかったが、それでも三蔵を奪回する為ならば、殺し尽くしても構わないと思った。
「死んでもいいんだったら、来なよ」
 言うが早いか、悟浄の手に錫杖が現れる。
 走る鎖の先で凶刃が白く光り、一瞬気圧された男達が刀を振りかざして悟浄に向かって殺到した。

 三蔵は妖怪の術にでもかけられていたのか。 
 見たこともない衣服に包まれ身を隠されていたが、怪我をしているのではないか。
 先程三蔵が自分に向けられた眼が明らかに怯えていたのが、悟浄の気にかかった。

 刃を刃で弾き飛ばす度、激しい金属音と共に火花が飛び散った。悟浄の鎖に絡め取られた半月刀が、回転しながら天高くに飛ぶ。
 余りにも、一方的過ぎる。
 最初の一人に当たり勝ってから、悟浄は用心して武器だけを奪うように注意していた。通常の商人に比べれば、指揮を取り陣を張るこの男達の戦闘能力は高い方だろう。しかし、余りにも普通の人間の戦闘だった。
 妖怪とは本当に無縁ということもあり得るが、三蔵だけは取り戻さねばならない。
 そう思う傍から、刀を奪われた男が躯ひとつで体当たりして来た。
 寸前で飛びすさり、背を蹴り倒す。
 そのまま躯を返すと、別の男が真上から落とす半月刀を、手刀で叩き折った。
「やり辛え…キリがねェしな」
 艶やかな紅い髪が、汗に貼り付いた。
 嫌な汗だ。
「……三蔵ーッ!」
 いつかのように、妖怪に操られた人々なのかも知れない。
「三蔵     ッ!」
 腕を折られた男が、無事な方の腕で刀を拾うとまた襲いかかって来た。
「さんぞ     ッ!」
 怯える瞳。
 自分に向けられた。

 誰かが号令をかけたのか。俄に男達が隊列を整えて後退した。
 自分の躯の動きが急激に鈍ったことに気付いた悟浄は、後からそう思った。
 視界が揺らぎ、膝ががくりと砂に落ちる。
「…なッ!?」
 片手で砂を掴みながら、錫杖を真横に振れば誰かの胴に当たって吹き飛ばすのを感じる。
 が、そこまでだった。
 ぐらりと傾いた上半身が、熱い砂の上に横倒しになる。
 口に入った砂が歯に嫌な感触を伝えてくるが、舌が痺れて味を感じない。腕も足も感覚が麻痺して来た。息苦しい。
 片目を眇めて周囲を見回すと、頭と口元をマントで覆った老人が、煙の上がる香炉を振りながら近付く所だった。
 その後ろから、誰かに躯を抱えられた三蔵が歩み寄って来る。ヴェールから垣間見える瞳が、悟浄を見ない。
「……さ…んぞ……」
 視界が薄暗くなり、老人が自分を上から覗き込んでいることに気付いた。
 深い青い色の瞳が、賢者の光で自分を見下ろす。

 じじーじゃねえっつの
 俺の探してんのは、もっと若い、紫の瞳の美人だっつのよ
 ほら、どいてよ
 すぐ傍にいるのに、それじゃ見えないじゃない
 ったく、お高いわがまま美人ったら、折角迎えに来てやってるってのに…
 ほら、たまにはにっこり笑って見せろよ

 老人は、砂埃にまみれた、若くて紅い髪の男が、合わない視点のままで苦笑ったのを見た。
「……さ…んぞ……迎え・に……」

 意識を取り戻した悟浄は、自分の躯が鎖に拘束されていることに気付いた。錆び付きかけた古い鎖が、幾重にも腕と胴に巻き付けられている。
「お客人」
 急に近くから声を掛けられ、気配に気付けなかった自分に舌打ちを打つ。
「お客人、暴れぬと誓うならばすぐにその鎖を解こう。害をなさぬと誓って頂ければ、我らもお客人には害をなさぬと約束しよう」
「…だってコレ、お客様の歓迎にしちゃ酷すぎんじゃねえ?」
 鎖を見下ろし、悟浄がふざけた口調で言った。
「それに悪いんだけど、俺ってばお迎えに来たのよね。……三蔵取り戻す為だったら、何遍でも暴れちゃうし?」
 眼が剣呑な光を湛える。
「長!」
 老人の後ろに控えていた、若い娘が走り出て来た。
「 ―――― よい。お客人の鎖を解きなさい。本当にあの若い方のお知り合いのようだ」
「話が分かっていいねえ、じーさん」
 娘が錠を外そうと近寄る、その目の前で悟浄は鎖を引き千切った。息を飲む娘に、悟浄はにやりとしぶとい笑みを向けた。
「……怖がらせて悪いんだけど、三蔵返してくんない?そしたらサッサと出て行くからさ」
 「長」と呼ばれた老人は、娘に三蔵を連れて来るように命じた。娘は僅かに躊躇いを見せ、老人は重ねて言い聞かせる。
 娘は戸口の布地をひらりと上げて、駆け出して行った。
 周囲を見回せば、悟浄の捉えられていたのは分厚い布地の天幕の内部だった。円形の天井から、どっしりとした布地が何重にも垂れ下がっている。躯の下に敷かれていた絨毯は、手触りがよく分厚かった。
「お客人」
 老人が悟浄を見つめる。
「お客人が、あのお若い方を迎えにやって来たのはよく判る。しかし、お客人にとっては、あの方はどういう存在なのかな?」
「あ!?存在!?…存在っつーか、何つーか…。アイツの所為で旅に引っぱり出されてるもんでね。アイツがいないことには、どうしようもねェ訳よ」
 へらりと笑いながら、悟浄は答えた。老人は悟浄をじっと見つめたままだった。
「…とにかく、返して貰うからな。あれであのクソ坊主…アイツ、必死で目的地に向かっててさ、こっちも毒を喰らわばナントヤラで、付き合ってやんねえとしょうがないんでな」
 老人の青い瞳の静けさに、悟浄はどことなく居心地の悪さを感じ始めていた。
「目的のある旅ですかな…。それは何とも羨ましいものだが、今のあのお方には何より難かしいことのようですな」
「なに…?」
「我々は、見ての通り移動しながら、人と人とを繋いで行くことを生業としておる。ここへもつい先日に辿り着いたばかりじゃ。停泊地は若い者が居心地の良さそうな場所を探し出して…そう、斥候のような者が、集落近くをぐるりと見回っていたのだが…」
 老人が、言葉を切った。
「あのお若い方は、妖魔の群の中に囚われておった」
「!」
「打たれた傷が頭にも躯にもあったし、我らの駆け付けた時には、肉を喰らわれかけていた」
 悟浄は自分で気付かぬうちに唇を噛んだ。
「躯を痛めつけるには、打ち据えればいい。躯と心の両方を傷付けるのに、一番効果的なことがお判りになりますかな?」
 悟浄の心臓が、どくんと強く波打った。
「自尊心を傷付け、辱め、躯をも同時に痛めつける。時にそういう残酷なことも起こる」
 脈動が、全身で強く感じられ、悟浄は自分の拳が怒りに震えていることに気付いた。
「我らは妖魔の風上に回り、先程お客人に嗅がせたのと同じ香を焚いた。あれは獅子も眠らせる。…あの方の髪の色を見て、我らが同胞かと助け出したのだが…」
「おい、じじい」
 悟浄が老人の言葉を遮った。
「回りくどいのは好きじゃねェんだよ。俺が動けなくなった理由は判ったが…アイツは、三蔵は、あんた等の同族じゃねえ。俺達は三蔵をさっさと取り戻して旅を続けたい。三蔵は…それに耐えられるのか?動かせるのか?」
 幾らでも他に聞きたいことはあった。
 聞くのが怖ろしかった。
 同時にわき上がる怒りは、三蔵を貪った妖怪に向けられたものか、それとも妖怪の手に落ちた三蔵自身へ向けられたものか…それすら判らずに、悟浄は自分の思考をシャットアウトすることにした。 
「三蔵はどこだ。先刻のアイツは普通じゃなかった。どうなってるんだ」
 立ち上がって老人を睨み付けた。先程娘の出て行った戸口へ向かおうとした悟浄は、老人の掌に腕を掴まれた。渾身の力の込められた、年月を経た拳だった。
「あの方は…」
 老人の深い青の瞳に、悟浄の瞳が揺らぐ。
「記憶を混乱させておる。頭部に強い衝撃を受けたらしい。記憶障害はそれが原因だろう。記憶と意識が朦朧としているさ中に…暴行を、受けたのだろう。口が利けぬようにおなりだ」
 喉が、ひゅうっと音を立てた。
「混乱して言葉が言葉として組み立てられんのだ。口を利こうにも、喉が緊張して声も出ん。最初は怯え切って人も中々寄せ付ず、怪我の手当も出来なかったくらいだ」
「おい…」
「お客人を見ても、あのお方は誰とは理解せんだろう」
「おい!」
 悟浄は老人の襟元に掴みかかった。
「ナニ言ってやがる…アイツはそんな柔な奴じゃねェんだよ!たかが妖怪くらいで…っ!」

 記憶をなくし、自分が何者かも判らず… 
 そんな中で躯と心を押し潰し叩き壊されるような目に遭ったのだと。

「そんな…ことで、ぶっ壊れるような奴じゃ……!」
 掴む掌から、しがみつくように力が抜けて行く。
 信じ切れずに漏れる呻きは、天へ求める救いに似ていた。

 声が聞こえた。天幕の外からの娘の声だった。
 戸口に降りた布地が捲り上げられ、天幕の中に強い光が差し込む。砂漠の太陽の、何もかもを漂泊する、白い光だ。
 そのただ中に三蔵はいた。
 柔らかな絹地の上衣に、鮮やかな刺繍で縫い取られた上着を重ね、薄いヴェールをきつく握り込んで躯に巻き付けている。
 しゃら…
 金の鎖が、歩みに揺れて音を立てた。
「…三蔵!」
 天幕の中に響いた声に、三蔵が全身を強張らせた。目の前の悟浄を、禍々しい何かであるかのような目で見る。
 三蔵は咄嗟に退こうとするが天幕の帳が丁度閉じられる。慌てて周囲に目をやり、紅い髪の男の他に、身の回りの世話をしていたらしい娘と、見覚えのある老人の顔を見つけ安堵の吐息を漏らした。
 再び悟浄に戻した眼は、やはり怯えの色を帯びている。
「……三蔵」
 ゆっくりと手を差し出して名前を呼ぶと、三蔵の躯がまた強張った。
「冗談だろ。本当に俺のこと、わかんない?全部忘れちまったっての?俺じゃなくても、悟空は?八戒は?」
 上げられる名前には反応せずに、三蔵の眼は目の前に近付く悟浄の掌に釘付けになった。
 三蔵の視界の端に、紅い髪が揺れた。その上の顔に、二つの紅玉の瞳がある。そして目の前には、今にも自分の躯に触れて来そうな、掌。

 手。
 掌。
 腕。

 三蔵の唇が、呼吸にわなないた。

 近付く。
 触れられる。
 掴まえられる。

 呼吸が早まり、まともに息を吐くことが出来なくなる。過酸素の息苦しさに、三蔵のこめかみの血管がずきずきと痛みを主張する。
 節の目立つ長い指と爪、大きな掌が三蔵の視界を占めた。
 後ずさりしようとした三蔵を、娘が後ろから支えた。娘の庇うような腕と心配気な表情を見た悟浄は、自分が酷く三蔵を追い詰めていることに気付き、頬に触れようとした手を一瞬止めた。
 途端に、三蔵が息を吐いた。
 見知らぬ男の腕が迫る恐怖が、一旦留まったことへの安堵の吐息だった。

「…ヒ……ぅぁ……ッ!?」
 悟浄は三蔵の躯をきつく抱き締めた。
「……ひあ……ッ……!!!」
 悟浄の腕の中で、三蔵は痙攣するように全身を硬直させる。恐怖にその瞳が限界まで開かれ、叫びの形を作る口からは、ただ枯れた空気だけが漏れ続ける。
「……ハァッ……ぁぁぁぁぁ……!!」
 声にならない声が、悟浄には躯を通して聞こえたような気がした。
 仰け反る躯で、全身で拒絶を表され、絶望に枯れた絶叫を感じながらも、悟浄は腕を解かなかった。
 ヴェールにくるまれた細身の躯に、自分のことを無理矢理にでも思い出させたかった。

「…なあ。ヒトの顔見て怖がるなんて、あんまりじゃん」
 抱き締めた耳元で、呟く。
「今すぐ思い出せよ。でもって俺のことなんか、何時も通り銃で撃ち抜きゃいいじゃん。今なら2、3発なら当てさせてやるからさ」
 腕の中で三蔵の躯がゆっくりと力を失って行く。血の気のひいた真っ白な顔が、ぐったりと背に落ちかかるのを、暖かな掌で支えてやる。
 恐怖に満ちた瞳。
 悟浄は三蔵の躯を抱き直した。三蔵の顔が恐怖に歪むのを見るのが辛く感じられて、自分の肩口に顔を凭れさせる。緊張に噛み締めた歯から、震える息が漏れて悟浄の首にかかった。

    頼むよ。俺のこと、そんな目で知らない奴みたいに見んなよ」
 薄暗い天幕の中、悟浄は三蔵を抱き締めて立ち尽くした。











- 続く -



another country


index