爪 / くろいぬ
【ハボロイ】






『爪』



 市内巡回視察の最中に逃走中のスリと出合わせたロイは、後ろに従ったホークアイが銃を構えるのを制止し、焔を生み出す右手をコートのポケットから表した。
 スリを追い掛けて来た街の人々は、噂の『焔の錬金術師』の技を期待し息を飲む。
「はッ!」
 一撃、二撃。
 すばしこく走り抜けるスリ目掛け、ロイの指先が軽快な音を鳴らして火花を散らし、焔を生み出す。
 人々が明々とした炎を見て、わっと湧いた。
「こら! 花火見物じゃないんだ! 危ないから下がってろ!」
 集まった見物人の隙間を駆け抜けるスリを追い、ロイに同行していた司令部の面々は、鬼ごっこ宜しく狭い路地を駆け回る羽目に陥った。

 路地を駆けながらロイは、スリを目掛けて火花を飛ばす。
 密集した民家への延焼を虞れたそれは、大変控え目なものであった。
 火力の限定に気を取られたロイは、民家の隙間の隘路で、振り上げた指先を思い切り塀に擦り付けてしまった。
「しまったッ!?」
 狙いからほんの僅か逸れた小爆発は、結果スリの行く手を阻み、ほんの少しの足止めの隙に先回りしていたハボックが犯人に飛びかかった所で、捕り物劇は終幕を迎えた。

「大佐? お怪我をなさったのですか?」
「大したことはない」
 塀にぶつけた手をロイが振って見せると、白手袋の指先で滲む紅が色を濃くした。
「止血した方が」
「すぐに止まるよ」
 ホークアイとの小声の会話最中、犯人を取り押さえるハボックがはっと振り向いたことに、ロイはその時気付かなかった。



「お疲れ様ーっス」
 咥え煙草の部下がノックも無しにドアを開けた時、ロイはまだ血染めの手袋を手にはめていた。
「やり直し。ハボック少尉、礼儀作法の心得は?」
 苦虫を噛んだようなロイの声を聞き、ハボックは開けっ放しの扉をお座なりに叩いて見せた。
「救急隊出動。危急の際には後回しにしてもいいことが色々あると思うんですがね」
 ハボックは肩に載せた救急箱に目線をやる。
「怪我したんじゃないんスか? 見せてください」
 ずかずかと部屋に踏みいる無遠慮な部下を、ロイは恨めしげな目つきで睨んだ。
「……どうしました?」
 手袋を填めた右手を反対の手で庇うロイを見下ろし、ハボックは首を傾げる。

「爪が割れてるんだ」
「そりゃ痛そうだ。手ェ出してください」
「痛い」
「でしょうね。さっさと消毒して包帯巻かないとバイ菌入りますよ」
「割れた爪が引っ掛かって手袋が外せない」
「あんたそれを早く言えよ!」
「痛い痛い痛い痛い痛い!!」

 慌てて腕を掴み取るハボックに向かい、ロイは悲鳴じみた声をあげた。
 司令部に帰還してから、ひとり部屋に籠もって手袋と格闘をしていたのだ。
 どれ程そっと外そうとしても、発火布の繊維は意地悪くロイの痛めた爪に絡み、無理をすればまた血が滲む。
 自力で手袋を外すのは難しそうだとは思ったのだが、司令部勤務の軍医の荒っぽさを思い出し、医務室へ行くのは躊躇われた。
 有能な右腕であるホークアイの助けを借りるべきかとも思ったが、彼女の潔ぎのさを鑑みるに、軍医の手にかかるよりも更に痛い目に遭うのではないかとの想像が浮かぶ。
 途方に暮れた所で現れた金髪の部下に太い腕で手首を掴まれ、指先からじんじんと伝わる痛みにロイは思わず声をあげたのだ。

「あー、これは痛そうだわ。大佐、これずっと我慢してたんスか?」
 思いもかけぬ同情の声に、ロイは瞑りかけの目を開けた。
 手首をがっちりと掴んだハボックは、眉を顰めて滲む紅を見ている。
「手袋切るしかないと思うんですが」
「どうせ染みで駄目にしてしまったんだ。構わないからやってくれ」
 促せば、吸いかけの煙草を携帯灰皿に押し込む。

 救急箱から取り出したほっそりした鋏が陽光に輝き、ハボックは面に緊張を浮かべた。
「切りますよ。本当に切っちまいますよ?」
「ああ」
 窓辺の椅子に座るロイを背後から抱えるようにして腕を支え、ハボックは白い発火布に鋏の刃を触れさせた。
「行きますよ?」
「判ったから早くしろ。痛くないようにそっとな」
「我が儘なんだから……」
 ハボックは溜息をつきながら手袋に鋏を入れた。
 薄く尖った刃先で、上向けた掌の手首部分の発火布を引っ掛けるように。
 手首の青白い血管に沿って鋏を進める。
「怖いっスね」
 ぱちんと、最初のひと切りでハボックは呟いた。
「意外だな」
「何が?」
 自分を抱え込む男をロイは間近から見つめたが、鋏に真剣な目を向けたハボックには目線に気付く余裕もない。
「もっとバッサリ、適当にやるかと思った」
「何言ってんですか、俺はデリケートで気の優しい男ですよ」
「気の優しい男は、ベッドの上でももっと自制心を効かせるんじゃないかと思うが?」
「あのねえ」
 思わず目を上げたハボックに、ロイは薄く笑みを浮かべた。
 明るい日差しが黒い瞳に映り込むのを、ハボックは困ったように見つめ返す。
「マジ緊張してんスから、茶化さないでください」
 真顔で嘆願され、ロイは瞠目した。

 さく。
 さく、さく、ぱちん。
 華奢な鋏が手袋を切り開き、掌の白を露わにしてゆく。

「自制心が足りないのは多少の自覚ありますがね。でも俺だけの責任じゃないと思うんですよね」
 ロイが肩を竦めると、ハボックは呻くような声で動かないでくれと言った。
「自制心が足りない分、丁寧に丁寧にやってるつもりなんスけどね」
 その点、ロイにも異論はない。
 ハボックの手は、ロイの反応のひとつひとつを見逃さぬように、いつも優しく触れる。
 優しく追い上げられた挙げ句、ハボックのペースに乗せられるのが常なのだ。
 ロイにはそれが面白くない。
 ひとこと何か言ってやろうかと、ロイはひと呼吸し、自分の身を包む煙草の香りを吸い込んだ。
 この香りに、いつも調子を乱されるのだ。
 ロイはそう思い、口をつぐんだ。
「かなりな小心者だと思いますよ、あんたに関しては」
 どこがだ?
 ロイはハボックの声を聞き続ける。
「ひやひやするんですよね。……あんまり無防備だと」
 さく、さく。
 ハボックは、自分が切り裂いた手袋の残骸がロイの手指に絡み付くのから、不意に目を逸らした。
「……なんか酷いことしてるような気までして来た」
「あぁ?」
 ベッドの上でのことを言われているのか、それとも手袋を裂いていることを言われているのか。
「守りたいのに何でこんなコトしてんだろって」
「こんなコトとは聞き捨てならんな」
「いっそ俺がうっかりヘマしでかしたら、その場で焼き殺して貰えるように、ベッドの中でもずっと手袋してて欲しいと思うくらいなのに」
 白い発火布の手袋は、ハボックの入れた鋏によって切り開かれ、ただの布きれとして絡み付くだけ。
 切り落とされた錬成陣の火蜥蜴が、胴を分断されて床からハボックを睨み付ける。

「取りますよ、痛かったら言って下さい」
「ああ」

 ただの切れ端になってしまった布片を、ハボックは慎重に摘み上げた。
「つっ」
「すんません」
 布地の繊維が半月型に割れた爪の端に絡んで引っ掛かったが、苦労の甲斐あって漸く外れる。
「ああ、怪我自体は大したことないスね。真っ二つに爪が割れてたらどうしようかと思った」
「右手が駄目になっても、左手だって使えるぞ」
「そーゆーことじゃなくて」
 素手の左手で指を鳴らす真似をするロイに、ハボックは何度目かも判らぬため息を付いた。
 そろそろと布切れを取り去ってみれば、殆ど取れかけの生爪がぷらりと浮くが、出血は殆ど乾き強度の深爪のような状態。
「これ、爪も切っちまった方が痛くないですよ」
「ああ。じゃあ頼む」
「俺っスか!?」
「ここまでやったなら最後まで面倒を見ろ」
 ロイの横柄な口振りに、ハボックは脱力したように膝を折りしゃがみ込んだ。
「大佐」
「何だ」
「やりますから、もう怪我しないでくださいよ」
 ロイが椅子の背後を振り返れば、ハボックは恨めしげに見上げる。
「おまえ、もしかして怒っているのか?」
「怒ってる訳じゃあないんですけどね!」
 思い切ったようにハボックは立ち上がり、ロイの右の手指をしっかりと掴む。
「切ります」
「あ、うわ、痛……!?」
「はい、終わり!」
「痛いぞ!」
「当たり前でしょうが!」
 浮いてぶら下がる爪を捲り、生皮に鋏を触れさせぬよう早業で切り落としたハボックは、続けて消毒の瓶を掴んで親指で蓋を外し、脱脂綿にたっぷりと消毒液を染み込ませる。
「ハボ……っ、しみるッ」
「我慢!」
「ぐっ」
 消毒アルコールが滴り、ひんやりとした感触をロイの手の甲に残して蒸発して行く。
 ハボックは漸く掴みかかっていた手を離し、今度は丁寧に傷口にガーゼを重ねて包帯を巻いて行った。

「大佐」
「……」
 ロイの顔の真横で、真っ白い包帯を睨む男の伏せた睫毛が、日差しに金色に輝いていた。
「もう、怪我しないでくださいよ」
「気を付ける」
 ぐるぐる巻にされた自分の指を眺めて、ロイの声が小さくなった。
「ハボック」
「なんスか?」
「気を付けるが。それでもまた怪我をしてしまったら。次はさっさと軍医の所に行くから。世話をかけないから」
 だから怒るなと。
 もう機嫌を直してくれないか、と。
 まるで自分のことであるかのように他人の怪我を嫌がった男に、ロイは懇願の目を向けた。
「騒ぎ立ててすまなかった」
 ロイの言葉に、ハボックは今度こそ力を使い果たしたように全身の力を抜いた。
「大佐」
「……わ、何だ!?」
 背後から椅子の背ごとロイの躯に腕が回り、肩口に陽光の色の頭が突っ伏す。

「怪我したら医者の治療を受けて欲しいと、当然思ってます」
「?」
 首筋からのくぐもる声音にくすぐったさを感じながら、ロイは無理に首を捻ってハボックの顔を覗き込もうとした。
 頬に触れる金髪が、ハボックの額も、空のように青い瞳も隠している。
「でも治療って概ね、痛いことするじゃないですか」
「まあ、そうだな?」
「あんたに痛いことをするのは、俺ひとりだけでいたい」
「馬鹿者!」
 巫山戯たことをと、怒鳴りつけても金色の頭は動かない。
 それどころか、ロイの躯を抱き締める腕の力が、益々強くなって行く。

「ハボック……?」
「あんた守るのも、滅茶苦茶にするのも、俺ひとりだけでいたい」

 顔も見合わせぬままで、ふたり。
 同時に体温を上昇させた。
 硝子越しの日差しの温かさに包まれ、デスクの上には開けっぱなしの救急箱と、きらきらと太陽を反射する鋏と消毒液の瓶。
 断ちっぱなしの包帯の白さえも、ロイの目には眩しく映った。
「ハボック。おまえは滅茶苦茶だ。誰が小心者だと?」
「俺はあんたに嘘偽りを言ったことはありませんよ」
「だから滅茶苦茶なんじゃないか」



 くすぐったさがまとわりつくのは、ああ、首筋に触れかかるこの男の髪と吐息の所為だ。
 ロイはそう心中で呟いて、目蓋を閉ざした。
 爪が元通りに生え揃うまでは、見る度きっと、自分を抱き締める腕の体温と痛みと甘ったるさを思い出すのだ。
 冗談ではない。
 ふとロイの脳裏に床に落ちた手袋の火蜥蜴の姿が浮かび上がり、ふり向いてにやりと笑われたような錯覚を覚えた。
 目を開けても閉じても追い掛けて来る何かにいたたまれなさを感じ、またロイの体温が高くなる。




 大の大人ふたりが顔を赤らめ黙りこくっていた、
 忙しくものどかな日の出来事。






fin.