謝罪 / 白猫
【ハボロイ】




『謝罪』




明日はちゃんと出ます。
そう言って電話を切ったあと、ハボックは、深いため息をついた。

タチの悪い風邪だった。頭痛から始まって喉の痛み、熱、下痢、鼻詰り、咳。ありとあらゆる症状をかわるがわる示されては、さすがの体力自慢にも、限界を感じないワケにはいかなかった。自覚症状が出てから3日目、傍目にも具合の悪さが一目で見て取れる程になった上、咳が止まらなくなったところで、普段他人の事など気にもとめない上司がとうとうキれた。
(ハボック少尉。今直ぐ帰宅しろ。こんなところで病原菌を撒き散らされてはたまらん。完治する迄出てくるな)
冷たいながらも至極真っ当なロイの言い分に、返せる言葉はなかった。中尉の命令に従って寄った軍医には不摂生をさんざん責められた挙げ句に山のような薬を処方されて。帰り道、1週間程外出しなくても済むだけの食料を買い込むと、そのまままっすぐ帰宅してベッドに倒れ込んだ。そのまま寝込んでしまえば、見舞いに来る者もある筈もなく、ただひたすらに眠るだけで過ぎていく毎日。
こんなモノ、一刻も早く治してしまいたい。
それだけを願って、与えられた薬を真面目に飲み続け、どんなに食欲がなくても、果物の一口でも口にするように心掛けたお蔭で、漸く全ての症状が収まってきたところだった。
(大佐。マジメにやってるんスかね)
となると、思うものが恋しい人のことばかりなのは致し方ないところで。
勿論、あのロイが、わざわざ部下を見舞いにくるような人間だとは最初から思ってもみやしない。だがそれでも。独り寝込んでいたこの数日間、ほんの僅かに期待してしまっていたとしても、自分だけが悪いワケじゃないだろう。
(寝込んだのが大佐だったら、毎日煩さがられるくらい見舞いに行って、何でも作ってやんのに)
漸く吸えるようになった煙草を咥えて、溜息をつく。
(もう大丈夫なの?)
やっと明日には出勤できるだろうと見込んで、夕方になって司令部に連絡を入れたとき、受話器の向こうで心配そうに声をかけてくれた中尉には、心から感謝したのだが。
(大佐、いるんスか?)
どうしても気になって、なるべく何気なく聞こえるように、問いかけた言葉にあっさりと返された返事。
(昨日からヒューズ中佐がいらしてるの。さっき一緒に帰られた所よ)
それを聞いた途端、また熱が上がったような気がしたのは、気の所為だけでもない筈だった。

「ったく、しょうもない」
大きくひとりごちてから、立ち上がって伸びをする。此処数日、面倒になってシャワーすら浴びてなかった。
「これじゃ、来てもらったところで何ができるワケでもないよな」
それが自分自身への言い訳じみた言葉なのは百も承知だけれど。少なくとも、明日はすっきりと出勤したい。久し振りの熱い湯でも浴びてからすぐに寝てしまえば、もうつまらないことを考えることもないだろうから。
はあ。
それでも、抑えきれなかった溜息を零しながら、ハボックは、ゆっくりとバスルームへと向かった。

熱い湯を頭から浴びると、少しは気分が楽になってくる。一度では泡立たない髪を、何度も洗い直して。体中を擦りつけるかのように強くタオルで洗い立てれば、数日分の汗も汚れも一気に流れ落ちていくようで、さすがに気持ちがよかった。そして身体の隅々まで洗い上げ、小さなバスタブに熱い湯を溜めて身体を沈めれば、考えることなど決まっている。
(今頃何をしてんだろな)
まだ、この時間ならきっと夕食でも食べているのだろう。司令部の近くには、結構安くて旨い店も揃っている。もっとも司令官が中央から来た来客を連れていくには多少不向きな気はするが、ヒューズ中佐なら、気取った店よりも、そういう店を好むだろう。それとも、最初から大佐の家で酒でも呑んでいるのだろうか。もう目を瞑っていても歩ける程に馴染んだあの家の間取りを、中佐も同じ様にすべて知ってるのだろうか。何度となく身体を合わせた大きなソファやベッドで。中佐も今頃同じように…。
「俺って最低」
思わず目を瞑るとバスタブにぶくぶくと頭まで沈める。頭を冷やす、というには正反対の行為ではあるものの、熱い湯と心地よい圧迫感のなかで、息の続く限り潜っていることにきめて、静かに気持ちを整理させようとした、そのとき。

がし。

突然髪を鷲掴みにされて、驚愕する。否、驚愕、だなんてかわいらしいものではなかった。素裸で湯の中に頭まで浸かって、狭いバスタブからはみ出した足は湯の外に放り出していたその体勢では、例え相手が子供でも、その気になれば溺れさせられるだろうことは明白で。湯の中で、目を見開くと同時に、口と鼻から湯が流れ込んできて必死にもがいた次の瞬間。物凄い力で湯から引き上げられて、そのまま思いきり噎せ返った。
一体、何がっ。
訳の解らないままに、咳き込みながらも必死に顔をあげてみれば、そこには今の今迄焦がれ求めていた愛しい人の姿、なのだが。
「…た…たい…さ?」
なんとか声に出してから、また咳き込む。
一体何故此処に大佐がいるんだ? 中佐は? というか、この人は今、一体何をしたんだ? 何でこの人は人を沈めたりするんだ?
頭の中を駆け巡る疑問を整理する余裕もなく、ぜえぜえと荒い呼吸を必死に抑えて、ふらふらと立ち上がってシャワーにひっかけてあったタオルを手に取ると、思いきり顔を埋める。
死ぬかと思った。
……なんだってこの人に殺されなきゃならないんだ?

「あの、大佐」
漸く、声が出るようになったことに気付いて、ゆっくりとタオルから顔をあげると、目の前には、呆然としたままのロイの顔。
「俺のこと、殺す気ですか?」
「…お前、何をしていたんだ」
「へ?」
「沈んでいただろう」
漸く聞けた愛しい人の声は、結構情けない内容で、感情を感じさせない口調になんとなく声が小さくなる。
「あ。えっと、すみません。ちょっと考え事を…」
「お前はいつも湯の中に沈んで考え事をするのか」
有り得ない、というような口調。そりゃ、ヘンだろう。そんなヤツがいたら、お目にかかりたい。
「いえ、普段はそうでもないですが。あの、もしかして、俺が溺れてるって思ったとか」
「違うのか」
「いくらなんでも自宅の風呂で溺れることはないスよ」
「そうか」
短く吐き捨てるような言葉。なんとなく微妙な間があく。
「えと。大佐? ヒューズ中佐はどうされたんですか?」
「アイツは帰った。…何故、お前がそんなことを知ってる?」
「中尉に電話したんです。明日には出勤できるからって。そしたらあんたは中佐と帰ったって」
「駅まで送って行っただけだ」
「そのまま、此処に来てくれた?」
「帰り道だっただけだ」
駅からでは大佐の家より、此処の方が遠いのに。この人が会いに来てくれた、そう思っただけで、心が浮き足立つ。
「合鍵、持っていてくれたんですね」
以前、無理矢理に渡した鍵。面倒臭そうに受け取って、それから一度も使われたことのなかった鍵を、しっかりと持っていてくれたことにも感動する。思わず頬が揺るんだのを自覚したとき、ひどく冷めた声が聴こえた。
「元気そうだな、少尉」
「え? あ、はい。明日には司令部に…えと、大佐?」
くるりと踵を返した人を慌てて呼び止める。
「どちらに?」
「帰る」
「…はい?」
「もう治ったんだろう。何の連絡もなかったから倒れていたら困ると思って来てやっただけだ。元気ならいい。明日は遅刻するなよ」
「ちょ、大佐っ」
本気で出ていこうとする人を追い掛けて、裸のままバスタブを飛び出すと、浴室の扉に手をかけていたロイの背中を思いきり抱き締めた。
「おいっ、やめろっ。濡れるだろうがっ」
「会いにきてくれたんでしょう?」
「確認に来ただけだ。部下が独りで部屋で野垂れ死んでたらまずいからな」
「そんなバカなことしかねないのは、あんたの方だと思うんスけど」
「なに?」
憮然とした顔で振り返りかけたロイをそのまま自分に向けて、今度は正面から抱き締めて。
「ハボックっ…」
「会いたかったんです。あんたのことばかり考えてました。今も、ずっとあんたのこと考えていて、でもまさか、あんたが来てくれるなんて思ってもみなかったから」
「私もまさかお前がこんなところで溺れているとは思ってもみなかったがな」
「だから溺れてなんかいないって…」
拘ってんなあ。
苦笑しながら言いかけた言葉が、ふと途切れた。
あれ?
抱き締める腕の中でかたく力の入った身体。揶揄われているわけではないのだとしたら。
(沈んでいただろう)
ロイの言葉が蘇える。
もしかして。
この人は、ホントウにそう思ったんだろうか。
「大佐? あんたもしかして本気で心配してくれたとか…」
その途端、漆黒の瞳に睨み付けられる。
「心配なんかしない。ただちょっと…驚いただけだ」
目を逸らしながら吐き捨てられた台詞に、胸がぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
この人は。
不意にどうしようもない愛しさがこみ上げる。
「おい、ハボック! 苦し…」
腕の中でもがく人に、まるで締め付けるようにして抱き締めていた事に気付いて、慌てて力を緩める。それでも、逃げだせない程の力は残したまま。
「大佐、すみません。驚かせてしまって」
「……」
黙り込んでしまったロイに、自分の推測が正しいことを知る。考えてみれば当然だった。例えば、ロイが会議室や倉庫で倒れ込んできるのを見たとき、何度心臓が止まる思いをした事だろう。この上司が、いつでも何処ででもころっと眠ってしまうと知っていても尚、それを見るたびに、何かあったのかと心臓が早鐘を打つというのに。浴槽に沈む自分をみつけたこの人が、一体どんな事を思ったかなど、想像はできないけれど。それでも。
「ごめんなさい」
耳許でそっと囁いて、ゆっくりと頭を撫でる。柔らかくてさらさらとした髪が、湯気で少し湿って指にまつわりつく。
「大佐?」
腕の中で、小さな溜息をついたロイの身体から、ふっと力が抜けた。
「大馬鹿者」
「ごめんなさい」
「二度とすんな」
「はい」
「もしどうしても浴槽に沈みたくなったら、一言断ってからにしろ」
それは随分と間抜けな図の様な気もするけれど。
「了解です、大佐」
「解ったならいい」
そして、そっと背中にまわってきた堪らなく愛しい手。
「ごめんなさい」
もう一度だけ謝ってから、その唇に、ゆっくりと接吻けて。



多分、自分が思っているよりも、ほんの少し、この人にも想われているのかもしれないなどと思いながら。





fin.