Sweet Sweet Sweet ! / くろいぬ
【軍部】【おばか】

『Sweet Sweet Sweet !』





 その日、冬から春への季節の移り変わりを感じさせるようなうららかさを、太陽は振りまいていた。
 司令部には長閑な空気が漂い、ハボック、ブレダ、ファルマン、フュリー等は、窓から差し込む朝の陽光を浴びながら、のんびりと書類に取り組んでいた。
「ホークアイ中尉がお休みだからといって、こんなにだらけちゃっていいんですか〜?」
「いーの、いーの」
「鬼のいぬ間の洗濯という奴ですな」
「おい、鬼とか言っていいのかよ」
 野郎4人揃って、とにかくだらけ切っていたのだ。

「こんなに暇だと、事件でも起こってくんないかと思っちゃうね」
 ハボックは椅子の背もたれに体重をかけ、だらりと頭を後ろに垂らした。
 180度回転した世界の中に、座る主のいない大きな椅子が見える。
「大佐も今日は遅いな。まだベッドの中でぐーすか寝てたりして」
「まっさか〜」
「中尉がいない日を狙い澄まして寝坊とか、あの人ならあり得るな」
 サボりたがりの癖にオモテ面だけはよく、そのくせ密かに長い付き合いの女性士官の逆鱗を怖れているらしい上官の、寝こける姿を想像しながら一同は笑った。
「そういえば大佐は最近、デート続きだったようですから。お疲れでぐっすりの可能性はありますな」
 ファルマンの言葉にフュリーが頷いた。
「ええ。『毎年この時期は忙しいのだ』と仰ってましたよ。あの情熱を仕事に向けてくだされば、ホークアイ中尉のご苦労も少しは軽く……」
 がたりと、音を立ててハボックが椅子から転げ落ちた。
「『この時期』、だと?」
「は?」
 ブレダが壁に貼られたカレンダーの前に駆け寄り、ファルマンは手帳を捲った。
「バレンタインデイだ……!」
「しかも『この日に家を建てると隣三件滅ぼす火事になる』という三隣亡ですよ!」
「はぁ?」
「中尉が休暇って、計画的だな!」
 ひとりフュリーがきょとんとデスクに座る前で、他の司令部メンバーがうろうろと室内を歩き回る。
「お、俺今日は早退するから」
「馬鹿野郎、てめェひとりを逃すかよ!」
「一体何だって言うんですか?」
 つかみ合いを始めそうなハボックとブレダに向かい、フュリーが言った。
「バレンタインだよ! あああもう始まってるぞ!? いいから深呼吸してみろ!」
 ハボックの絶望的な顔を眺めながら、フュリーは深く息を吸い込んだ。
 紫煙やコーヒー、お茶、タイプライターのカーボン、電子機器から微かに上がる独特な空気とは違う香りが、漂っている。
「あれ、何でしょう? 甘い香りが……」
 香ばしくも甘いチョコレートの香りだ。
 様々なフレイバーがそこに混じり、複雑なハーモニーを奏でている。
「……ミルクっぽいしブランデーの香りもするしバターの香りも。キャラメル? コーヒー? ミント? ナッツ?」
「その全部だろうよ」

「その全部だとも!」

 ばあん!
 司令室の扉が音を立てて開き、エプロンを付けたロイ・マスタング大佐が現れた。
 開いた扉から室内に暴力的なまでに甘い香りが押し寄せて来る。
「うっ! この匂いは何ですか!?」
「チョコレートに決まっているだろう、フュリー曹長!」
 大佐は張りのある声を高らかに響かせた。
「今日はバレンタインデイ! 野郎ばかりでムサ苦しい生活を送っている君達に、私の受け取った愛のお裾分けをする日だ! さあ諸君、存分にかっ喰らい給へ!!」
 がしがしっ! と大佐の手が4人の襟首を捉える。
「いざ給湯室へ!」

 普段コーヒーやお茶を淹れる程度にしか使われない給湯室に、食堂の厨房から借りて来たと思われる大鍋が鎮座坐していた。
 給湯室に立ちこめるむせるような甘い香りの中、フュリーは勇気を振り絞り大鍋に近付く。

 ぼこっ。
 ぼこぼこぼこっ。

 鍋の中で焦げ茶色の粘液が沸騰して泡立っている。
「さーあ、そろそろいいかなっ」
 大佐が柄杓で粘液を掻き混ぜると、表面に得体の知れぬ小さな固形物が浮かび上がり、また沈んで消えた。
「大佐、これは一体……」
「チョコレートだと言ったろう、曹長」
 分かりの悪い子供を見るような目で、大佐はフュリーを見た。

 数年前からの恒例行事なのだと、力のない声でハボックが言った。
 笑顔を絶やさぬマスタング大佐の人気は、イーストシティではちょっとしたアイドル並みなのだ。
 バレンタインごとに送られるチョコレートや菓子の数は年々増え、大佐ひとりで片付けられる量ではなくなった。
 だが、市民からの人気が高まると同時に国内外のテロリストや犯罪者達の恨みつらみも高まり、事前に発覚し事なきを得たものの毒物が混入されるという事件も起こり、大佐本人がチョコレートを口にすることは危険であるとの判断がなされるようになった。

「だから街の女性達の愛の結晶を、私は口にすることが出来ないのだ」
「毒物混入の可能性のあるシロモノを部下に食わせんでくださいよ」
「安心したまえ。厳重チェックの上、未開封の市販品のみを受け取るようにしている」
「食い切れないなら施設に寄付すればいいんじゃ」
「巡回先の施設の女性から贈られるチョコレートも多い。突っ返されたと感じてショックを受けるデリケートなお嬢さんやマダム達がいたらどうするんだ」

 どぷ。
 どぷ。
 大佐は柄杓で鍋の中身を掻き混ぜては、高く持ち上げ流し落とす。
 粘液はリボンのように垂れ、異物混じりの輪紋を作った。
 丸いものや凹凸のあるもの、尖ったものが、チョコレートの粘りけのある表面に浮いては沈む様子を眺めていたフュリーは、震える声で問うた。
「チョコ、だけじゃないみたいですよね?」
「砕いたチョコレートクッキーやチョコレートケーキ、チョコレートのかかっていた洋酒漬けチェリーやナッツ柿の種、ヌガーにキャラメルにマロングラッセ……、何でも入っているぞ」
「何故チョコはチョコ、ケーキはケーキと別個にしておいてくれないんです……」
「不平等になってはいかんからな!」
 自分が口にしないモノに対して平等も不平等もねえだろとハボックが呟いたが、その間にも元ケーキと思われる異物が柄杓に当たり崩れ溶けて行った。

 上機嫌な笑顔を浮かべながら、大佐は煮えくり返るチョコレートをマグカップに注ごうとした。
 熱いチョコレートが手に跳ねそうになり、少々考えてから四つのカップを並べて柄杓から注ぎ分けることにしたようだった。
 チョコレートがカップの外側を垂れ落ちるのも、調理台に溜まったり床にボタボタ音を立てて零れるのにも、全く頓着するようすもない。
「東部の女性達の愛の籠もった、栄養満点ホットチョコだ! さあ諸君、私の替わりに飲みたまえ!」
 マグカップを突き付けられた面々の顔面から、血の気が引いた。
 他の三人から背中を突っつかれ、まずフュリー曹長がチョコを吹き冷ましながら口を付ける。
「あ、思ったより普通……」
 言いかけたがふやけた元クッキーらしきものが口に飛び込み、咳き込んだ。
「君達も遠慮しないで飲みたまえ。大鍋一杯あるのだぞ、頑張って飲まないと無くならないではないか! さあ!」
 はしゃいで調理台をバンバン掌で叩き始めた大佐に、ハボックは小声でお伺いを立てた。
「大佐。他の部署にもお裾分けしちゃどうでしょう?」
「うむ。個人への贈り物は身内で片付けるべきだろうとのことで、既に丁重にお断りされているのだ。皆、奥ゆかしいな」
「違う。絶対え違う」
 ブレダが呻くように言った。
「それと、チョコレートがいつまでも此処にあると、お茶の香りが負けてしまうとのことだ。出来るだけ速やかに飲み終わって欲しいとも言われた」
「……他の部の連中、完全に他人事だと思ってますな……」
 カップの中身を見つめる目に涙を浮かべたファルマンが呟く。
「調理場からお借りしている鍋だし可及的速やかに空にしてお返しせねばならないのだ。早く飲め、そしてお代わりをしろ」
「鬼だ、鬼がいるよママン……」
 ハボックが目蓋の裏に思い浮かべた郷里の母の姿が、星になって消えた。




 あっと言う間に夜である。
 快調に過ごした大佐と違い、朝方ののんびりした空気から濃厚猛攻チョコレートにアテられた司令部尉官メンバー等は、その日いち日仕事がモノにならずに揃って残業をしていた。
 一体何杯飲んだのであろうか、ホットチョコレートに負けた曹長の素肌には既に吹き出物が現れている。
 ジリリ。
 ベルの音に、ハボックはかったるそうに受話器に手を伸ばした。
「はいはーい」
『ホークアイ中尉から一般回線で通信です』
 電話交換手から中尉の名を聞いた瞬間、ハボックは口から呪いの言葉が滔々と流れかけるのを辛抱するのに苦労した。
『ハボック少尉、大佐のご様子は?』
「毎年通りでご健康そのもの、適度にサボリを交えつつの相変わらずの仕事っぷりでしたよ」
『そう。他に目立った出来事は?』
「……中尉、判って言ってんでしょう……?」
 泣きたい気持ちを堪えながら応えたハボックは、受話器の向こう側の「やっぱり」という短い呟きを聞き取り、更に涙がこみ上げそうになった。
「ひとりで逃げるのは卑怯じゃないっスか、中尉。俺ら今日いち日チョコレート責めだったんですけど」
『大佐おひとりでアレを片付けるよりは負担が軽いでしょう』
「中尉も一緒に負担してくださいよ!」
『どの程度片付いたのかしら?』
 都合の悪いことはスルーかよ! と訴えたい気持ちを抑え、ハボックは報告した。
「50リットル大鍋満杯のホットチョコレートがまだ2/3程残ってます。他の部署からは匂いがキツ過ぎとの苦情ひっきりなし、大佐本人に言えないものだから俺らが全部それを口頭で受けてんですが」
『お疲れ様』
 ちょうそっけ無え。
 頬を引き攣らせつつも、ハボックは笑みを浮かべた。
 意趣返しだ。
「中尉の分はしっかり残してありますんで、明日は宜しくお願いしますよ」
『インフルエンザに罹ったので明日から数日病欠します』
「なっ」
 きっぱりとした中尉の声に、思わず受話器を取り落としかける。
『大佐のことだからまた、ホットミルクに溶かす訳でなく湯煎にかける訳でもなく、ただチョコレートを鍋で煮たのでしょう?』
 そんなシロモノがアタクシの口に合うとでも?
 ハボックは中尉の心の声を聞き取った。
『2/3も残っているの……? 多分明日には、脂肪分が白く浮いて舌触りの悪くなったチョコレートが、鍋にずっしり詰まって固まっているのでしょうね。大変でしょうけど、任務を全うすることを切に願ってるわ』
「ちょっ……、中尉!?」
『ああ、ハボック少尉、ひとつ忠告しておくわ。チョコレート三昧で過ごすなら、アルコールは控えた方がいいでしょうね。太りたくなければ』
「あんたマジこのまま逃げ切るつもりですかっ!?」
『カロリー摂取過多が目に見えてるから、脂肪分も炭水化物も控えた方がいいわね。今度会う時にあなた方の顔カタチが変わってないとよいのだけど。では健闘を祈る』
 プツ。
「中尉! 中尉ーー!?」
 チョコレートが無くなるまでインフルエンザが快癒することはないのか?
 おたふく風邪だの麻疹だの持ち出すなよ!?
 万感の想いを込めたハボックの声が、司令室に残響した。


 甘い香りは未だ司令室に漂い、日付は変わりつつあった。
「あれ? 俺今年チョコ貰ったっけ?」
「貰えなかったような気もします」
 ブレダとファルマンの言葉に一同首を傾げたものの、とにかく焦げ茶の甘い物質にはもう当分お目にかかりたくはないという心情が思いを占める。
 ……実は大鍋チョコレートの中に、大佐宛以外の司令部御中とある個人宛チョコレートが混じっていたことなど、誰も知らず。
 リザ・ホークアイ中尉宛のチョコレートの数が相当数あったとも、勿論知る訳もなく。
 揃いも揃って晩婚の相の出ていそうな面々は、ため息をつきつつ仲良く残業に向かい合うのだった。

 バレンタインデイの、ほんの小さな狂想曲。
 終幕。




「あ、曹長鼻血」
「む、無駄に元気だよな、俺達」
「ははは、はは。ははははは……」






fin.