| 雫 / くろいぬ |
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【ヒューロイ】 『雫』 ぱたぱたと。 目を瞑っていると、顔に軽く暖かなモノが落ちて来た。 『ああ、ヒューズ』 躯を繋げて。 動き続けて。 ゆったりと、時に性急に。 感覚の海に浸り切る時間に私の上に零す、彼のきれいな雫。 私だけを見つめる顔が、愛しげに笑みを浮かべていたり、探るように目を眇めていたり、堪えるように顰められていたり。 額や鼻の頭に浮かんだ汗の滴が流れ、とがった顎の先から滴る。 ぱたぱたと。 軽やかで暖かな、甘い汗の滴。 『ヒューズ、重たいぞ』 文句を言おうとした喉が、掠れた。 「ヒュー……?」 「無事か?」 急激に現実に引き戻された。 動乱するイシュヴァール近くの街の、対テロリストの作戦中だった。 軍に追われ郊外の荘園に立てこもった敵は、自らの籠もる館に火を放った。 銃を向けられ彼らに館を明け渡した荘園の主一家を逃すべく、数名のチームを任され館に突入した。 テロリスト達の攻撃を切り抜けた先には、短銃自殺を遂げた首魁の亡骸。 一室に閉じこめられていた家族を炎上する館から逃し、チーム全員が脱出を終えようとしたその瞬間に爆発は起こった。 ─── 簡単な時限発火装置で家庭用燃料を爆発させたものらしい。 そんなことは、後々の調査で解明されたことであったけど。 身じろぎをすると、瓦礫の崩れ落ちる音がした。 「怪我はないか、ロイ」 「この馬鹿もの……ッ!」 突入チームのしんがりを勤める私を、更に背後から庇った男に怒鳴りつけた。 倒れた私にのし掛かるように、落ちた瓦礫を背で支えている。 滴るのは紅い血液。 乱れた黒髪の隙間からこめかみへ流れ、眼鏡のツルを伝って頬骨から私へ熱く降り注ぐ。 刻々と重たくなって行く躯と床の隙間から苦労して抜け出し、ヒューズの背を見て息を呑んだ。 粉々になった壁石や天井の梁が乗り、それ以上に、炎の舐めた焼け跡。 即座に焼けこげた衣服の生地をはぎ取りたくなるのを堪え、彼の腕を掴み躯を引きずるように担ぎその場を離れた。 幸いそれ以上の爆発は起こらず、テロリスト達の骸の数の確認作業に従事する部隊を後目に、無傷で残った離れの一室で、ヒューズは応急手当を受けることが出来た。 長く使われていない離れの主寝室、その中央にしつらえられた大きな寝台にヒューズが俯せる。 「アテテ。手加減しろよ、なあ」 「馬鹿、これは当分痛むぞ」 焼け焦げた背中の布地を切り裂くと、所々に火傷の赤い水泡と煤、打撲と破片の負傷。 「硝子が残ってる。おい、暫く静かにしてろ」 「何を……うわ!」 傷口に張り付いた小さな欠片をピンセットで取り除き、消毒液が間に合わないので離れの居間から持って来た酒を傷にぶちまけた。 髪の間も探り、傷口に残る砂礫の類を酒を浸した晒し布で拭い取る。 「血も埃も煤も、キレイになったぞ」 「せめてブランデーは無かったのか?」 立ちこめるジンの、杜松のフレイバーを嗅ぎながらヒューズは情けのない声を出した。 「おまえにはこれで上等だ」 冷たい声で言えば、ヒューズは枕に抱きつきながら、肩越しに手を伸ばす。 ひらひらと折り曲げられる手指にボトルを握らせてやれば、それまでの死にそうな声は何処へ行ったのやら、俯せたまま喉を仰け反らせて瓶に口を付ける。 ごく、ごく、と、ヒューズの喉仏が大きく動いた。 顎の、輪郭を縁取るように伸ばされた髭より首側の、毎朝私よりも丁寧に剃刀であたる部分に、うっすらと青い影が揃って来ているのが目に焼き付いた。 「消毒と鎮痛剤だ」 「内臓に傷が無くて残念だったな」 「死ぬは、馬鹿」 ジンのボトルから口を離したヒューズは、今度こそ枕に突っ伏し目を瞑った。 「ヒューズ」 「なんだ」 「しんがりを命じられたのは私だ。最後尾を守る私の後ろにくっついててどうする」 「気にくわない生意気な若造のおまえにしんがりを命じた我らが上官殿は、余計なことをと、ご機嫌を損ねるだろうな」 「判ってたらもう……」 「だが、おまえを無事生き延びさせたことで俺が処分されることはないだろうよ」 枕に顔を半分押し付けながら、ヒューズはにっと唇の端を上げて見せた。 「突発の事件におまえを緊急で駆り出して、事故にでも遭えば上出来って思ってる奴は多いだろうな」 片手に握ったままのジンのボトルをヒューズは振った。 「だが上層部の方ではきっと、もうおまえの力を失うことを『勿体ない』と判断してるだろうよ。目の上のたんこぶでもあるけれど、適当に牙を抜いて飼い慣らせばよいと思ってる上層部の連中が多いんじゃね? イシュヴァールの大地を灼いた焔の錬金術師さんよ?」 とっさに返事が出来ずに詰まる。 「おまえさんの利用価値の高さは知れ渡ってる。おまえを守ることで命令違反に繋がることがあったとしても、殊更処分されることも上に報告が行くこともないだろう」 たぷたぷと水音をさせたボトルに、ヒューズは再び口を付けた。 大きく喉を上下させ、度数の高いアルコールの過ぎる感覚を目を眇めて味わう。 「簡単に牙抜かれるようなタマじゃねえってトコ、後からゆっくり思い知らせてやんなきゃな。それまでは俺に守られとけ。おまえはこの後しなきゃならないことが山程あんだろ」 残り少なくなったボトルを、投げ寄越して睨み付ける。 彼には。 ヒューズには、野望を語ったことがあった。 望みを叶える手助けをすると、下に付いて助力をすると彼は誓った。 彼の誓いに応える為にも、私は私の野望を達成せねばならない。 「私を庇って怪我をしたとしても、黙って守られてろと言うのか?」 「当然だ。その為に俺がいる。……何だ、おまえ案外覚悟が座ってねえな!」 不意にヒューズは陽気な声を出した。 苦労しつつも寝台の上に起きあがり、背の引き攣れる痛みに顔を顰めつつも腕を差し出す。 「何だよ。今頃判ったのか、おまえが一番厳しい道を選んだってことを」 ヒューズはとても優しい声を出した。 「後悔してんのか?」 「後悔などは私はしない」 「ようし、いい子だ。おまえは誰を踏み台にしても平気なツラをしてなくちゃならない。それが俺でもだ」 ヒューズは私の頬に指先で触れ、あぎとをくるみ込むようにして掌で撫でた。 瓦礫に埋もれたがさがさの掌で、確かめるように触れ輪郭を指で辿った。 指がこめかみから眼窩を彷徨い、私は目を瞑る。 つ、と熱いものが頬を伝った。 ヒューズは私の目蓋に掌を重ね、子守歌を歌うような静かな声で言った。 「顔洗って来い。……先刻の俺の血でべたべただ。機嫌の悪い上官殿と顔合わせる前に、すっきり小綺麗にしておけよ。草臥れた様子を見せて奴を喜ばせてやるこたァねえ」 ぱたり。 床に水滴の落ちる音が聞こえたような気がした。 いつか彼が私の上に滴らせた甘い汗と、先程私を庇って流した血液と、同じ人体から流れた液体には変わりないのに。 自分の落とした水滴が酷く異質であるように思えた。 それなのに彼は愛しげに頬に残る雫の軌跡を指で辿る。 あやすような声で言い聞かせるような口調を続ける。 濡れた痕にヒューズは唇を寄せて目を細めた。 苦くはないのかと尋ねると、あまいさ、と唇を動かした。 おまえの味覚は狂っていると伝えたが、彼はもう笑うだけで答えてはくれなかった。 fin. |