ラジオ / くろいぬ
【ヒューロイ】【セルフ】【18禁】





『ラジオ』


 その日はもう午後だというのに気温が上がらず、ロイは中々暖まらない自分の指先に微かに苛立ちを感じていた。
 昨夜ベッドの中で読みかけで眠ってしまった本の続きを読みたかった。
 ページの隙間にべたべたと張り付けた付箋の数だけ、どこかに抜き書きするつもりだったり、別の資料で確認したかったりという記述があった。
 だが自宅の書庫は部屋全体が薄暗く、到底そこに籠もる気になれない。
 革装の分厚い本を何冊も抱え込んだロイは、ストーブの前の床に陣取った。
 ソファからクッション、寝室からは毛布を持ち出し、眩しく反射する陽光は薄手のカーテンで遮って、ノートと尖らせた鉛筆を数本と手の届き易い所に本の柱。
 居心地よく作り上げた空間に毛布を躯に巻き付け床に転がろうとした瞬間、静か過ぎるとロイは思った。
 締め切った窓からは、道行く自動車や馬車が石畳に響かせる音も入って来はしない。
 レコードは曲が終わっても掛け替えるのが面倒になるのが目に見えているので、ロイはラジオを引っぱり出すことにした。
 棚の上から床に。
 運が良ければ何かの演奏でも聴けるだろう。
 重たい革装の本を広げながら、ロイはラジオのチューナーを回した。

 ざらざらざら。
 ロイは本のページを捲りながら、ノイズを聴き続けた。
 時折、切れ切れに入るのは天気予報に市場情報、時事は軍の管制下の情報ばかりなので耳を素通りする。
 雑音だらけの音楽と低目の女声、乾いた紙の捲れる音を聴きながら、日差しがゆっくりと部屋を過ぎって行く。
 何冊もの本を開きながら、ロイはやがてメモを取るのに飽き、腹這いになって床に頬を押し付けた。
 明るい陽光の当たる背と脚はすっかり暖まり、固い床が頬に伝える冷たさが心地よかった。
 ざらざら。
 ざらざら、ざああ。
 身をくるむ毛布から片腕だけをラジオに伸ばし、雑音の変化を聞き取る為にチューナーを回す。
 さああ、ざああ。
 ざあああ、ぷつ。と。
 途切れるような音がしたとロイが目線を上げた瞬間、微弱な電波で声が届いた。
 理解の出来ない言語はそれでもどこかしら聞き覚えがあり、声に続いた旋律に、ロイはその正体を思い出した。
『世の中全て 我らが神イシュヴァラの懐なり』
 イシュヴァールの民の唱える古語の聖句と、神に捧げる詠唱だ。
 万物創造の神への感謝と祈りの唄は、遙か昔ヒューズから幾つかの詩篇を翻訳して貰った筈だが一向にロイは内容を思い出せなかった。
 ただ雑音に掻き消えそうな独特な抑揚に耳を澄ませ続ける。 

 さああああ。
 ざああああ。

 ああ、ひっきりなしに続く雑音は、砂漠の風の音に似ている。

 短い詠唱が終わると、電波が途絶した。
 イシュヴァールの民は殲滅されたことになっており、都市の片隅にスラムを作り生き延びているイシュヴァール人も、その存在を正式には国から認められてはいない。
 イシュヴァラの神を奉る言葉も、軍の管理下では放送される筈のないものだ。
 短時間、恐らく極端に狭い範囲での、無許可のゲリラ放送だ。
 スラムにはこの放送を聞き届けた者が大勢いるのだろうか、それとも自分しか聞く者がいなかったのではないか。
 幻のような祈り、幻のような詠唱。
 存在しない筈のイシュヴァラの民。
 今はノイズしか聞こえて来ないラジオを見つめ、ロイは軍に報告する気などさらさらない自分に気付く。

 さああああ。

 乾いた砂の乗った風のような雑音を聴きながら、ロイは躯を仰向けにした。
 カーテン越しの日差しが満ちて明るい部屋の天井を眺め、眩しさに目を鎖ざすと、何年か前の記憶の中から友人の表情と声が蘇った。
 あれはイシュヴァールの戦いを「内乱の鎮圧」と言っていた頃だ。
 ロイは思い出した。

 軍高官が誤ってイシュヴァール人の少女を射殺してしまったことが、燻る不満を爆発させ内乱の発端となった。
 長い時間に発酵した悪感情と憎悪がそこにはあった。
 イシュヴァール人ゲリラ達の自分の命を顧みないテロ行為に、軍も対応を手こずっていた。
『奴ら、自分の命も何もかも、神に預けてやがるんだ。イシュヴァラの神の作り出しし生命が、いつその御元に召されても、還って行くだけだと信じてる』
 ヒューズはイシュヴァラの聖典や伝説に興味を示した。
『あいつらを駆り立ててしまったのは俺ら軍の方なんだな』
 共生の道を探ろうとしても、何年もかけて積み重ねてしまった喪われた生命の数々が、それを妨げるだろう。
 多くの血を吸った砂漠を眺め、ふたりで乾いた風に吹かれた。

 さああああ。

『死にたくねえなあ』
『大人しく殺されるようなタマか、おまえが?』
 笑いに紛らわせながら、人目を忍んで交わした接吻けは、戦場での生への欲求そのままの強さだった。
 噛み付くように唇をぶつけ、舌を絡め、呼吸を奪い合うように吸い上げた。
 続く砂嵐、顔を打つ砂礫、殺気立ったざわめきと無線機の雑音の中で触れ求めた、熱い躯。
 
  ―――― さああああ。

 ラジオのノイズを聞きながら、ロイは自分の唇に指先で触れた。
 ヒューズの触れた唇だ。
 吐息を奪うような接吻けで、頬や目蓋、顎、耳朶に触れたのだ。
 ロイはヒューズの接吻けの痕をなぞるように、指で辿った。
 顎から首筋へ。
 鎖骨、胸、鳩尾。
 シャツを肌蹴けて胸元へ指を走らせ、また唇へ。
 熱を持ち始めた下腹部にも、もう一方の掌を絡める。
 ボトムの前を開き、性急に追い立てる動きで自分のものに触れていたロイは、一転、今度は緩やかに熱を楽しむ摩擦に変化させた。
 つい数週間前の逢瀬を思い出しながら。
 何かと口実を作ってはセントラルからイーストシティへとやって来る男との、情事の再現だ。
 同じ部屋で、この床の上で。
 何年も昔の焦慮交じりのものとは違う、穏やかでありながら強く求めて耽る情交。
 灯りを落としての情事を、陽光に晒け出されながら思い出す。
 指の生み出す感覚、舌の滑り、汗に強まる紫煙の香りと身を穿つ熱。
 体温と重みの替わりに、カーテン越し太陽の熱と光が、ロイの躯を覆った。

「 ―――― っ、ヒューズ……」



 
 熱の放出を終えたロイは、糸の切れた操り人形のように手足を床に投げ出していた。
 やがてのろのろと身を起こし、乾いた雑音を流し続けるラジオのスウィッチを切ろうと腕を伸ばす。
 さああああ、ざああああ。
 乱れた毛布を脚に絡め、シャツもボトムも前を開いただらしなさのまま、目を瞑って耳を澄ませた。
 不意に電話の呼び出しが鳴り、ロイは現実に引き戻された。
 よろけながら立ち上がり、本の柱を蹴って崩してしまったことに溜息をつきながら電話口へと向かう。

「もしもし」
『よぉ、ロイ』
 受話器から流れるヒューズの声が、ロイの名を呼んだ。
『用事が出来たんで明日そっちに行く。おまえ、夜は予定入ってるか?』
「いや。空けておこう」
『珍しく素直だな!』
 受話器から笑い声が響いた。
『……ロイ? どうした?』
 ロイの沈黙を不審に思ったか、ヒューズの声に心配の成分が混じり込んだ。
「何でもない。丁度おまえのことを思い出していたところだ」
『へえ?』
 途端に変化した口調は、ロイに男の面白がる表情を容易に想像させた。
 鼻持ちならない顔だ。
 ロイは速やかに結論付けた。
「いつまで経ってもむさ苦しくて図々しい奴だと思ってな」
『そのむさ苦しくて図々しい奴のこと、考えてくれんだろ?』
「しかも鬱陶しい」
『鬱陶しくなるくらい頭から離れない?』
「……図々しい馬鹿者」
『なあロイ』
 低い囁き声。
『明日の夜まで、それまでずっと俺のこと考えてろよ』
 「ばかばかしい」と、ロイは口に出せなかった。
『おまえに逢うまで、おまえのこと考えとくから』
「……妻子と一緒にいる時は妻子のことを考えろ」
『考えてるさ、両方』
「そういうのを不実と言うんだ」
 電話の向こうから、肩を竦める気配が伝わった。
「明日の朝玄関を出るまでは、家族のことだけ考えてろ」
『了解』
 電話が切れる寸前に、遠くから家族のものらしき声が届いた。
 自宅からの電話であることに、漸く気付く。
「そういうのを不実と言うんだ」

 いつの間にか室内に差し込む光は赤い色味が強くなっていた。
 崩れた本の山を避けて毛布を爪先で蹴りあげると、開いたままのノートのページが風で捲れ上がり、置きっぱなしの鉛筆が転がる。
 ロイはラジオに手を伸ばし、スウィッチを切った。
 砂漠の風の雑音に替わり、今度は耳の奥に男の声が繰り返し流れた。
『明日の夜まで、それまでずっと俺のこと考えてろよ』
「ばかばかしい」
 言われた通りにずっとおまえのことを考えてました。
 大層に不実なことです。
 ヒューズに向けてそう言ったらどんな顔をするだろうかと。
「……ばかばかしい」
 呟いて本を積み上げ直し、ノートと鉛筆をその上に重ねて置いた。
 くしゃくしゃの毛布を畳んで寝室へ戻そうと手に取り、肌寒さを感じて躯にきつく巻き付ける。



 頭の中をひと色に染める声が、鳴りやまない。




fin.