『Mater Dolorosa』 / くろいぬ
【アニメ設定】【ハクロ夫人】






『Mater Dolorosa』




「ハクロ夫人。将軍がお戻りになられました」
「まあ、ありがとう。おまえ達、お父さんのお帰りですよ」
 兵隊のお兄さんが言うと、お母さんはにっこり笑ってあたし達を手招きした。
 お父さんはお仕事でずっとおうちに帰れなくて、この前『行ってらっしゃい』とお父さんに言ったのは、お隣のジョーンズさんの犬が赤ちゃんを生む前だから、もう随分と前のことだった。
「お父さん、お土産持って来てくれたかしら?」
 お兄ちゃんに小声でそっと聞いたら、偉そうに胸を張ってこう言ったわ。
「ばかだな、お父さんは遊びに言ったんじゃないんだ。お仕事だぞ」
「そんなこと判ってるわよ。でもセントラルに行った時には、きれいで面白いおもちゃやゲームをお土産にくれるわ。お母さんにだってブローチやネックレスを選んで来てくれたじゃない」
 お兄ちゃんはもっともっと偉そうに、鼻の穴が見えるくらいに反り返った。
 まるで見栄っ張りの蛙みたいだったわ。
「お父さんの行ったのは、女の飾り物をちゃらちゃら売ってるような所じゃないんだぞ。戦争だ。うんと東の砂漠の方に戦争しに行ったんだぞ。大勢の兵隊を率いて、砂漠の街に『進め! 続け!』、だ。バンバーン! バンバーン!」
「やあん! お母さん、お母さん……!」
 鉄砲を撃つ真似であたしの周りをぐるぐる回り出したお兄ちゃんに、お母さんが声をかけた。
「ほら、お迎えに行きますよ」

 兵隊さんの開けたドアからお父さんが入ってらした。
 お父さんは真っ先にお母さんにただいまのキスをして、次にあたしを抱き上げ、その次にお兄ちゃんの肩に掌を置いた。
「お利口にしてたかい? お母さんの助けになれたかい?」
 お父さんの腕はとても太くて固くて強い。
 その腕にぎゅうって抱っこされて、少しちくちくしたキスをして貰うのはとても好き。
「勿論よ。勿論よ」
「僕は数学の試験でトンプソンを負かしたよ! あいつ生意気なんだ。でもそんなことよりお父さん、お話を聞かせてよ! 兵隊の話を聞かせてよ! その拳銃撃ったの?」
 お兄ちゃんがお父さんの腰の拳銃を指さした時、お父さんは少し困ったように笑ったの。
 兵隊さんにネギライをしたお母さんが、お父さんに抱かれるあたしの脇に手を入れ持ち上げ床に立たせた。
「あなた。着替えておくつろぎになったら?」
「ああ、そうしよう」
 お父さんがそのまま行ってしまったのでお兄ちゃんはぶつぶつ文句を言っていたけど、お母さんに叱られてた。
「お父さんはお疲れなのよ。お仕事のお話はまた今度聞かせて頂きなさい」
「僕は勇敢な兵隊達のお話を聞きたいだけなんだ」
「もうこんな時間。ふたりともベッドに入りなさい」
 しぶしぶと寝室に行き、寝間着に着替えて。
 ベッドにお気に入りのティディベアを寝かせようと抱き締めてから、あたしは思い出した。
 ティディの寝間着のガウンの裾に、自分で刺繍を刺したんだった。
 裾をぐるりと飾る花縄の刺繍は、それは上手とは言えないけれども色んな色を使ってみたし、どうしても今夜中にお父さんに見て貰わなくちゃいけないと、その時思い付いた。
 ティディを着替えさせて、寝室のドアを開き階段を下りて居間のドアをそっと開けて。
 ねえお父さん、見て。
 この刺繍あたしが刺したの。
 指を何度か針で突いてしまったけど、でも一度もガウンを汚さなかったのよ。
 いつか連れて行って貰ったピクニックの花畑で編んだ花輪飾りを、ティディにも見せてあげたかったの。

「あなた」
 お母さんが持って来たきらきら硝子のデキャンタを、父さんは受け取り、お酒をグラスに注いでひと息に飲み干した。
「飲み過ぎは身体に悪いわ」
「判っているよ。明日も勤務だ、程々に控えるさ」
 グラスにお代わりを注ぐお父さんの向かいのソファに腰を下ろして、お母さんはレース編みの続きを始めた。
 お母さんの編んでいるのは繊細なモチーフを繰り返す大判のショールで、南方のおばあちゃまのお誕生日に贈る為に、時間をかけて編んでるものだった。
「あなた」
「うん?」
「火薬の匂いがしますのね」
 お父さんは少し笑って、お母さんの細い銀のかぎ針が素早く動いて行くのを眺めた。
「洗い流したつもりだったが、染みついているかな」
「嗅ぎ慣れた匂いですから」
「君の父上も、祖父殿も、曾祖父殿も軍の人間だったからな……」
「火薬の匂いも焼けた鉄の匂いも鉄錆びの匂いも、子どもの頃からの馴染みですわ。もう何年もあなたが前線に出向くことなどなかったのに、戦地にお出になることが頻繁になるのなら、子ども達も馴染んで行くのかしら」
「先のことなど判らんよ」
 お母さんはレースの編み目から目を上げず、お父さんの声には少し疲れが混じった。
「……責めるな」
「軍の家系に育った私には、軍人が戦地で為したことを責める権利などありませんわ。ただ、そう……、子ども達もこの匂いに慣れて行くのかしらと思って」
 お父さんはお酒をぐいと飲み干して言った。
「もう休む」
「ええ」
 お父さんがゆっくり立ち上がる姿と、お母さんがレースをバスケットに仕舞うのとが見えたので、あたしは慌てて階段を駆け上がった。
「あなたがご無事でお戻りになれば、私達はそれでいいのよ」
 ドアの狭い隙間から、最後にお母さんの声が聞こえたような気がした。

 朝あたしが目覚めると、お父さんはもうお出かけになった後だった。
 刺繍を見て貰うには夜まで待たなきゃならないし、行ってらっしゃいも言いそびれてしまってあたしは、泣きそうになっていた。
「だってお父さんがお帰りになる時間まで、あたし起きていられるか判らないんだもの。眠ってしまうかもしれないんだもの」
「僕は早起きしてお父さんにお話を聞かせて貰ったぜ」
 お兄ちゃんは自慢げに胸を親指で指し、壊れたラジオみたいに大きな声でぺらぺらとまくし立て始めた。
「リオールの反乱軍は手強くて、お父さんも大苦戦だったんだって。でも兵隊達はとても強くて勇敢で死を恐れなかったんだ! 混み入った市街地には時々は罠だって張ってあるんだぜ? でも軍には最新式の銃だって、ピカピカのライフルだってあるんだ。物陰から投げつけられる石や、ナマクラの剣なんかに負ける筈がないさ!」
 呆気に取られていると、お兄ちゃんは急にうっとりと天井を眺めた。
「ああ、早く大きくなりたいなあ。大きくなったら軍に入って、僕も勇敢に戦うんだ。最新の武器を揃えた強い軍で、僕も武功を立てるんだ」
 こんな威張りん坊のお兄ちゃんが勇敢な兵隊さんになるなんて、とんでもない!
 何か言い返してやろうと思っていたら、急に大きな音がした。
「お母さん?」
 あたし達に注ぎ分けていた紅茶のポットを、テーブルに置く音だった。
 うつむくお母さんの顔が見えなくて、あたしは慌てて駆け寄った。
「何でもないのよ」
 見上げるあたしに微笑むと、あたしの髪を優しく撫でて、その手は額から頬に回る。
「……そう、あなたも勇敢な兵士になりたいの。勇敢な兵士は、義務を果たさなくちゃならないのよ。どんな命令がくだっても、違わず遂行しなくちゃならない。どんなことでもやれる人が、強くて立派で、勇敢な兵士なのよ」
「お母さん、お母さん、どうしたの」
 お兄ちゃんが急に小さい子みたいな声を出した。
「何でもないの。さあ、お茶が冷めてしまうわ。早く朝食を食べて学校に行きなさい」

 お母さんに促され、あたし達は急いで朝食を摂り、兵隊さんの運転する車で学校に向かった。
 お兄ちゃんは朝あんなにか細い声を出したなんてことは忘れたみたいに、クラスの男の子達にアメストリスの軍がどれほど強いかを話していた。
 その日の学校はなんだかとてもつまらなくって、家に帰っても課題を済ませるだけで、お母さんとお兄ちゃんとあたしだけの三人の広いテーブルで夕食を摂り、早くベッドに潜り込んだ。
 ふかふかの枕にティディと一緒に顔を埋めて、あたしはうつらうつらと夢を見ながら眠った。
 だから、あたしの部屋のドアを開けて『ただいま』と言ってお父さんが額にキスをしてくれたのが、夢の中のことなのか本当のことなのか、あたしには判らなかった。
 目を瞑ったまま、くん、と匂いを嗅いで。
 聞き慣れた煙草の香りと、きな臭さを感じたような気がして。

『火薬の匂いも焼けた鉄の匂いも鉄錆びの匂いも、子どもの頃からの馴染みですわ』

 ああ、この匂いのことだ。
 そう思った。
 お兄ちゃんにもこの匂いが、やがて染みついて行くのかしら。
 バスを使っても落ちないくらいに、膚の奥底まで染みつくこの匂いが。
 あたしが将来結婚する人も、この匂いをさせているのかしら。
 大きくなったあたしは、お母さんのように哀しそうに笑うことがあるのかしら。
 うつらうつらと夢に紛れて思いながら、ティディをきつく抱き締めて、ゆっくり眠りの暗い底に向かった。








fin.