前触 / 白猫
【ヒューロイ】【士官学校】




『前触』『前兆』ーさいしょの一歩ー



「んっ…くッ…う…」
「…から、…と、…やくっ…」
定例になっている消灯後の見回り中、誰もいない筈の資料室から微かに漏れ聴こえてきた声に、寮の監督生マース・ヒューズは、軽く眉を顰めた。
士官候補生ばかりを集めた戒律厳しい寮といえども、その生徒総てが規律を遵守する優等生ばかりでは決してない。昼間の厳しさから僅かばかりにでも解放される夜ともなれば、密やかに持ち込まれた酒や嗜好品を持ち寄って、気の合う者同士こっそり集っての愚痴大会など、日常茶飯事である。
勿論、そんな中には、こういう特殊な場所にはお決まりの情事に耽るものもいくらでもいて、それ自体に苦言を呈すつもりなど微塵もない。だが。
「せめて窓くらい閉めてからやれよな」
普段、倉庫として使われる室内が黴臭くなるのを避ける為に付けられたのだろう、天井近くの小さな窓が閉め忘れられたままで、そこから漏れてきた声が、廊下にまで響いていたことに呆れながらも苦笑する。
「オイ、こっちまで聴こえてんぞ」
小さくノックをしてから、囁いてやれば、途端に声が止んだ。そのまま、何事もなかったかのように扉の前を行き過ぎる。元々、監督生としての義務と習慣だけで行っている見回りに、特別意味があるなどと思っているわけもなく、ヒューズの性格を熟知している寮生達も、彼に何を見つけられたところで、今更、悪びれる事もなかった。取り敢えず、犯罪といえる様な事でない限り、同じ生徒同士、いちいち目くじら立てなければいけない事など何もある筈もない。
「さァてと。そろそろ戻るか」
大きく伸びをしてから、自室へ向かおうとした時、背後で扉の開く音が聴こえた。自分に声を聞かれた誰かが行為を中断したのかと、深く考えることもなく、何気なく振り返ったヒューズの目に飛び込んで来たものは。
「ロイ・マスタング?」
資料室の扉から堂々と出て来て、ちらりとこちらに目を遣っただけで、そのまま真直ぐに廊下を歩き去って行くその後ろ姿を見送りながら、ヒューズは唖然と立ち尽くした。



ロイ・マスタング。
その名前は、この寮だけではなく、士官学校全体に、特別な意味を持って囁かれていた。
(『錬金術師』なんだとさ)
まだ、当人がその姿を現わす以前から、多大なる興味と幾分のやっかみを伴って流れた噂。若くして『錬金術』などという得体の知れない分野に、類い稀なる才能を発揮しているという将来有望な超エリートの特待生。何も士官学校になど入らずとも、今直ぐにでも『国家錬金術師』の資格試験にも合格するだけの力量の持ち主。
君が責任を持って面倒を見てくれたまえ。
そんな言葉と共に、教官から引き合わされた同室者になど、元々興味などある筈もなかった。それでもいつもの人当たりのいい笑顔を浮かべて手を差し出した自分を、すべてお見通しとでもいわんばかりに、まるで蔑むかのような目付きで射抜いてくれた、とんでもなく性格の悪い美人。当初心配した程、周りの生徒達と敵対するわけでもない代わりに、馴れ合うこともない特別な生徒。他の生徒とは、そこそこ人並みに付き合う癖に、自分に対しては、当初から慇懃無礼な態度を隠そうともしない傲慢な奴。それが。
「あいつ…が?」
一体、誰と。そう思った瞬間に、何か得体の知れない感情が、胸に沸き起った。規律違反など絶対にしないとでもいうかのような、涼しい顔をして。一体自分が何に腹を立てているのか、解らないままに、ヒューズは、煮えくり返るかのような、腹立たしさと苛立ちを必死に押さえ付けながら、既に見えなくなった同室者の後を早足で追いかけた。


ガチャリ。
自室の扉を開けるだけの行為に、こんなに気が重く感じられたのは、初めてだった。
「マスタング?」
先に戻っている筈の同室者の姿が見えないことに気付いたのと、シャワーの水音が聴こえてきたのは、ほぼ同時だった。
(あの野郎)
普通、寮生は、共同シャワーを使う。ただ、代々の監督生専用のこの部屋には、特例として、シャワー室が設けられており、それは24時間使用可能だった。
(情事の名残りを此処で消すってか?)
静まり返った廊下を歩くうちに、多少治まりかけてきていた苛立ちが、再燃する。
(済ましたカオしやがって)
放っておけばいい。
自分のなかの理性が囁くのを聞きながら、ヒューズは、どうしようもない衝動に駆られたままに、シャワー室の扉を思い切り開け放った。

「よお。マスタング」
頭からシャワーを浴びたまま顔をあげた同室者の訝し気な表情。
「今、使用中だ」
「それくらいわかってるさ」
「なら何の用だ。野郎の裸を見るのが趣味なのか?」
偉そうな物言い。
「野郎が趣味なのは、お前さんの方じゃねえのか?」
一瞬、目を眇めた相手が、何かに思い当たったとでもいうような顔で、ふっと笑みを零した。
「ああ。そういうことか。マース・ヒューズ監督生は、寮生のプライヴェートには口出ししないという評判を聞いていたんだがな。どうやら、過大評価の様だな」
「ロイ・マスタング!」
「怒鳴らなくても聴こえている」
煩そうに眉を顰めて。
「趣味じゃないのなら、閉めてくれ。部屋が濡れると掃除が面倒だろう」
「趣味だと言ったら、どうするつもりなんだ」
何故、そんなことを言ったのか判らなかった。ただ、目の前の取り澄ました小綺麗な顔を見ているうちに、こいつを酷く困らせてやりたいという衝動が込み上げてきたのは確かだった。案の定、眉を顰めた奴が、僅かに首を傾げる。
「俺がヤりたいと言ったら、俺にもヤらせてくれるのか? 優等生」
「お前、私とヤりたいのか?」
心底、不思議そうなカオで、問いかけられて、思わず言葉に詰まった。勿論そんな気は少しもなかった。なかった筈だった。それなのに。

別に私は構わないが?
目眩がしたような気がした。

熱い湯が降り注ぐなかで。噛みつくように合わせた唇の柔らかさに酩酊感さえ覚えて。
軍に入ると決めたとき、故郷の友人が冗談混じりに言った言葉。
(お前、男にはしるんじゃないだろうな)
そのときは冗談じゃねえと大げさなまでに震えてみせて、おおいに笑いをとったものだった。仲間内でも早めに初体験を済ませ、すっかり女にも慣れている自分がよもや男にはしるなどと、自分は勿論のこと、揶揄った奴らでさえ思ってもみなかった筈だった。それが。
「んっ…」
喉の奥から掠れた声を出しながら、逃げることなく絡める舌に応えてくる奴に。押さえつけている自分の方こそが捕らえられているなどと。
「糞っ」
「あんまりだな」
「なんだと」
一瞬、唇を離した隙に思わず漏れた悪態に、思いも寄らぬ言葉が返されて眉を顰める。
「裸で押さえ付けられて男に接吻けられた挙げ句に悪態つかれては、私の立場がないだろう?」
「な…」
くすりと。
いつもの優等生面とはまるで違う、如何にも意地の悪そうな、でもずっと生きた表情。ほんの少しだけ唇を歪めただけで、コイツはこんなにも表情を変えるのか。
「もういいか?」
「なに?」
言葉を失ったまま、惚けたように、そのカオを見つめていた自分にかけられる冷静な声。
「もういいのなら、湯、止めさせて貰うぞ。ふやけてしまう」
面倒臭そうに呟かれて頷くと、直ぐにシャワーの音が止んだ。突然の静寂に、熱くなっていた頭が、すうっと冷えてくる。
「身体を拭きたいんだが?」
「あ、ああ」
そのまま、当たり前のように手を差し出されて。
「タオル」
「あ、ああ。悪い」
何が悪いんだ? 何故当然の様にこいつに使われてるんだ? 思わず近くにあったタオルを手渡しながら、首を捻る。
「どうした? ヒューズ監督生」
「その監督生ってェのやめろ。馬鹿にされてるみたいで気分悪ィ。ヒューズでいい」
「ではヒューズ。お前も脱いだらどうだ? とんでもないことになっているようだが、それは一応制服なのだろう?」
「…つわッ」
指摘されて見下ろした自分の格好に、思わず飛び上がる。ずぶ濡れのヨレヨレになったそれは、1本しか持っていない制服のズボンで。
「お前、何でもっと早く言わねーんだっ」
「何故、私がそんなことを伝えてやる必要がある? 勝手に入ってきて、勝手に濡れたのは、お前の方だろう?」
こいつが正しい。確かに正しいが。
「…お前、本気で性格かなり悪いだろ」
「少なくとも、良いと言われたことはない。…草臥れてるな」
その視線が向けられているのが、ズボンではなく、その奥に仕舞い込まれた自分自身だということに気付いて、慌てて反論する。
「すぐに勃つ」
「要らん」
「おい、なんだ、それは」
途端に素っ気無く返された言葉に、なんとなく、かちんときて問いただしてみれば。
「実はかなり眠い。最後まで起きていられるか心配だった。そのまま萎えてて貰えれば好都合だ」
「…あ?」
聴き間違えたかと、耳を疑ったとき、目の前で気の抜けた大きな欠伸を見せつけられる。
「もう寝る。濡れた場所は、お前が責任を持って拭き取っておけ」
「おい、コラ。なんだって俺がっ」
叫ぶのを無視して、そのまま、もう用事は済んだとばかりに、さっさとベッドに向かう奴。
「おい、こら、マスタングっ」
その場で濡れたズボンを苦労して脱ぎ捨てながら叫んでも、振り向きもせずに、布団に潜り込んで背中を向ける奴に覚えたのは、怒りよりも寧ろ脱力感だった。
(なんなんだ、こいつは)
一体どういうヤツなんだ。溜息をつきかけて、不意に過る思い。
(そういや、コイツのこと何も知らねえんだな)
錬金術師なのだということすら、噂でしか知らず、実際に何かを見たワケでもない。とんでもなく賢いのは、承知しているものの、それ以外の私事については、何ひとつ知るはずもなく。
(ああ、だがアレだ)
キスは上手かったな。色事には多少慣れてるはずの自分が簡単に煽られた熱いキスを思い出して、にやりと笑う。
「上等じゃねえか」
つい零れた台詞に、ベッドのなかの背中が、僅かに揺れたような気がしてなんとなく可笑しくなる。
(澄ましたカオしやがって、コイツも結構動揺してんじゃねえのか)
もしかしたら、いま、自分は、とんでもなく面白いヤツを相手にしているんじゃないだろうか。
視線を煩がるかのようにベッドの中で身じろいだ奴をみながら、久し振りに心の底から、わくわくする感じが沸き上がって来るのを感じていた。




「おい、ちょっと詰めろ」
狭いベッドに仰向けになっていたマスタングが、驚いたような顔で瞬きをするのを見ながら、隣に潜り込む。
「なんだ。続き、ヤるつもりなのか?」
「いや。それはいいんだけどよ」
訝しそうなカオで、それでも、律儀に端に寄る奴に、にやりと笑いかける。
「お前のことが気に入った」
何かおかしな事を聴いたとでもいうかのように、眉を顰める奴。
「なに?」
「だから、気に入ったって言ってんだろが。俺は面白い奴は好きなんだ」
「性格悪いって言っていただろう?」
「その性格の悪さも、底意地の悪そうなトコも、傲慢なトコも、我侭なトコも、気に入ったんだから、仕方ねえだろ」
「お前、私を揶揄っているのか?」
「なんでお前を揶揄うんだ? 人の好意は素直に受けておけよ。そんなんじゃ友達も出来ねえぞ」
「友人など必要ない」
「なんだ、お前、友人いないのか? じゃ、俺が、お前の一番最初の友人ってわけだ。まあ、宜しく頼む」
差し出した手を、不思議そうに見つめるカオが妙に幼くて。
「おい。握手を知らねえワケじゃないんだろ? 差し出された手は握るのが礼儀だぞ?」
「ベッドの上でする握手など知らない」
拗ねたような口調と妙に幼い表情に、思わず噴き出す。
「ヒューズ!」
「マスタング。お前、あの澄ました面やめて、いつでもそのカオ見せてたら、あっという間に、いちばんの人気者になれんのになァ」
「煩い!もう寝る。黙ってろ」
「いいからあとひとつだけ聴け」
くるりと背中を向けて、布団を引っ被り、すっかり眠る体勢に入った奴に声をかける。
「俺は他人のやることに口出しするようなタチじゃねえんだが。だがな、マスタング。あれだけは考え直せ」
「…何のことだ?」
「さっきのだ」
「お前とキスしたことか?」
「それじゃねえっ」
「では何だ? はっきり言え」
「だから、その前だろがっ。あんな所で、誰が相手かは知らねえが…」
資料室での情事を直接言葉にするのはさすがに憚られて口籠ると、漸く気付いたらしい奴が、半分振り向いて小さく笑う。
「御立派な監督生としては、ああいうのは見過ごす訳にはいかないか」
勝手に納得して、イヤな表情を浮かべた奴の肩を抑えて、はっきりと断言する。
「違う。監督生なんか関係ない。これは友人としての忠告だ」
「…友人?」
「お前に恋人がいるのは仕方がない。だがな、誰が見てるか判らないような場所であんな事はするな。もしもあんなことを強要されてんなら、そんな馬鹿、振っちまえ。お前をそんな風に扱うようなヤツにお前の価値が解っているとは思えねえ」
「私の価値?」
不思議そうに首を傾げて。
「お前は私の何を解っていると言うんだ?」
「何も知らねえ。だが、これから知る。それで充分だろう?」
一瞬、瞬きしたマスタングの纏った空気が、次の瞬間に確かに変わった気がした。

「私のことが知りたいのか?」
「知りたい」
「随分と物好きだな」
「よく言われる」
「成る程。では、その開き直りに免じて、二つ程教えてやろう」
何かを面白がるかのような悪戯な表情を浮かべたマスタング。
「マスタング?」
「まず、私には恋人はいない」
「な、ちょっと待った! 恋人じゃねえ? だが、お前資料室にいただろうっ」
「何か悪いか?」
真直ぐ見つめてくる、鋭く光る眼。何処までも深い深闇の黒。この眼になら、捕らえられてもいい、などと思う自分は、初っ端からどうやら末期のようで。ならば、いっそ骨迄喰らわせてやろうと決心する。
「そら、悪いだろ」
「道徳でも説くつもりか?」
「そんな面倒臭えことするもんかよ。お前みたいなの相手に理屈並べて、俺に勝ち目なんざあるワケねえだろ、優等生」
「では、なんだ?」
何を言われても跳ね返してやろう、そんな意志の強さを秘めた眼に、心底感心しながら、ゆっくりと囁く。
「やきもちだ」
「……は?」
一瞬で、子供の顔になった相手に、ゆっくり微笑みかけてやりながら。
「聴こえなかったのか? やきもちだ。俺はどうやら、お前のことがかなり好きらしい。お前が、他の男とそういうことをしてると知って、黙ってるワケにはいかねえんだよな」
「…ヒューズ?」
「ああ、揶揄ってるワケでも、トチ狂ったワケでもねえから。まさか自分が男に告白するハメになるなんざ、今の今迄、夢にも思わなかったけどな」
「…告白とはなんのことだ?」
酷く顰められたカオ。
「そんなもの決まってんだろが。愛の告白だ」
「……」
改めて、言葉を失ったらしいマスタングの綺麗な顔がまた一層歪む。
「こら。ンな露骨にイヤな顔することねーだろ」
「ヒューズ。お前、男に告白するのが趣味だったのか」
「んなワケねえだろが。お前と違って俺は至ってノーマルな性向の持ち主だからな。お前は俺の一生涯で一人きりの男だ。喜べ」
断言してやると、狭いベッドの上で、思いきり身体を退く奴。なんつー失礼なヤツなんだ、こいつは。
「おい。人の告白くらい真面目に聞け」
「男の告白なんか真面目にきけるか、馬鹿」
「お前なら慣れてんだろ?」
「そんなわけないだろう、私は男に興味なんかない」
「嘘つけ。興味のない奴があんなこと…」
笑い飛ばそうとしたとき、何とも微妙な顔を向けられていることに気付いて口を噤む。
「あれはたまたま居合わせただけで、私は何もしていない。資料室で昼寝をしてたら寝過ごして、気付いたら、扉の近くでヤってる奴等の所為で、出られずにいただけだ。お前が声を掛けてくれたお蔭でそいつ等が離れたからな。そのまま部屋を出させて貰った。なんなら明日、そいつ等にきいてみればいい」
とんでもない台詞を淡々と述べるヤツ。
「だが、お前、さっき俺にヤらせてやるって言ったじゃねえかっ」
「ただの冗談だ。お前がそんなことをやるような奴じゃないことくらい判っていた。実際、何もなかっただろう? 勿論、私は男に興味などないし、私の相手は当然いつだって女性だけだ」
……。
「うそだろ? ちょ、マスタング」
「だから、二つ教えてやると言っただろう。これがすべてだ。もう寝る。さっきのお前の戯れ言は明日になったら、忘れてやる。お前も忘れろ」
「誰が忘れてやるもんかっ、俺は真面目にお前に告白をだなっ、おい、マスタングっ」
「おやすみ」
「マスタング、おい?」
照れているのか、もしかしたら呆れているのかもしれないが、などと思いながら、見つめていた背中の向こうから、聴こえてきた規則正しい寝息。
…この野郎、人の告白の最中に本気で寝やがった。


なんだって、こんなことになっちまったんだろう。
溜息をつきたい思いのなかで、たったひとつ。自分のこの思いが、明日になれば忘れるようなものでは決してないということだけが、多分真実。
「まァ、いいか」
普段、余り吸わない煙草を取り出して、思わず口に咥える程には、動揺もしているのは自覚しているが。
「面白くなりそうだしなぁ」
隣で眠るキレイな顔に微笑みかける。


「悪いけどな、気の長さとしつこさには、自信があるんだ。覚悟しとけよ」




どうやら、長い勝負になりそうな予感の最初の夜。



fin.