幻 / くろいぬ
【ヒューロイ】【士官学校】



『幻』

 廊下の足音というもののは深夜は妙に響くから、だから俺は眠りの中にいながらぼんやりそれを聞き取っていたのだろうと思う。
 足音が扉の前で止まりドアノブが静かに回り始めた頃にはもう、ベッドから降り靴も履かずに音に向かっていた。
 ノブに飛び付き扉を開けば、煤と埃にまみれた戦場帰りのルームメイトがそこにいた。
「よお」
「ああ」
 急に開いた扉に驚いたか、ロイ・マスタングは目を見瞠いていた。
 その表情に『おかえり』という言葉が出なくなる。
「どうした、マボロシでも見たような顔して?」
「幻?」
 おもてを微かに傾けた様子に、微かな違和感。
 未だ廊下に立ち竦むロイの肩を引き寄せ、室内に入らせた。

「少し驚いただけだ、こんな時間に起きてるとは思わなかったから」
 ロイが落とした少ない荷物から、砂が散らばった。
 焔の錬金術師であるロイは、士官候補生でありながら予備として少佐と同等の階級にあり、年に数度は東部の砂漠地帯へ任務に向かう。
 イシュヴァールの内戦鎮圧作戦に参加する為に。
 床に散らばる赤茶の砂は、イシュヴァール砂漠の土産物だ。
 
「幻、か」
 シャワーでも浴びて来いと言ったのに、ロイはベッドの端に腰をかけた切り。
「ヒューズ、おまえの見る幻は、こんなにくっきりと眼に映るのか?」
 腕を伸ばし、自分の手の甲と、部屋の壁や天井との間で視線を動かす。
 それきり動こうともしないので、やむなく重たい軍靴の紐を緩め、脚を楽にさせてやる。
「幻なんて見たことねえよ」
 大の男の脚を一本一本抱え込み、硬い革靴を脱がせてるとつい、言葉尻に力が籠もる。
 それをカバーするつもりで、砂だらけの靴をそっとベッドの傍に揃えて置いた。
「おまえは幻を見るのか、ロイ?」
「ああ」
 即座の返事に顔を見上げる。

「焔に巻かれると自分以外の全てが揺らぐ。錬成した焔の高熱が見せる単なる蜃気楼だが。炎上する街の最後の姿を見守るのは自分だから目に焼き付けておこうと思うのだが、躯の周囲に巡らせた防御の壁の向こう側は、いつでも蜃気楼のように揺らいでいる。焔が消えた後には何も残さないから、それまで見ていた蜃気楼すら夢だったのではないかと思うことがある」
 ロイはひと息に言った。
「寸前まで人々の生活の基盤であった街が、消えたのに。人々の生活を消したのは自分だと判っているのに。街の幻が消えた空虚な空間が急に目の前に現れる。すると今度は、広がる空虚の方が幻のように思えて来る」
 足下から立ち上がると、今度はロイが俺を見上げる形になる。
 元もと黒目がちの瞳は見上げると益々瞳孔が目立ち、ロイが密かにコンプレックスを感じているらしい顔立ちの幼さが強調される。
「どっちが幻だろうと時々思う」
 喉元に立ち上がる襟の軍服を脱がせると、少しは躯が軽そうに見えるようになった。
「自分の見てるものは全部幻なんじゃないかと思うこともある」
 呼吸も楽になるように、屈み込んでシャツのボタンを外してやると、黒い瞳が間近に見えた。
「イシュヴァールの民がそうだったように、今までそこにあると信じていたものがある日突然揺らぎだして、全てがゆめまぼろしと消え涯てしまうんじゃないかと思う」
 ロイの躯が揺らいだ。
 泣きじゃくる子供の引き攣る呼吸のような、間欠的に揺れる躯をベッドに横たえ、肩まで毛布にくるんでやった。
「なあ、ヒューズ」
「なんだ?」
 応えると、ロイの瞳が少し和らぐ。
「イシュヴァールから軍司令部に帰還報告に戻り、建物を出たらもう夜だった。深夜の街を歩いてここまで戻っても消灯後の学生寮は薄暗く、部屋まで歩く廊下も静かでひと気がなくて、もう本当に誰もここにはいないのかもしれないという気になった。そんな筈がないのは判っていたし、でも誰もが眠りに落ちて、静かな呼吸で目を瞑りろくな身動きもなく躯を横にしているのもとても、自分ひとりが取り残されたような思いにさせるものだと思った」
「ロイ」
 折角肩まで包み込んだというのに、ロイは毛布をはだけて腕を伸ばした。
「おまえが起きてドアを開ける筈なんてなかった」
 ロイのベッドに腰掛ける俺の腕を、ロイは掴んだ。
「おまえの姿を見た時には願望が見せた幻かと思った。ゆめまぼろしのように消えてしまうんじゃないかと」
「ロイ」
 袖をきつく掴んで来る指に掌を重ねた。
「ロイ、ここにいる。幻なんかじゃない」
 外したロイの指に、唇の熱を押し当てる。
「俺はちゃんとここにいる。おまえがイシュヴァールに向かう前からここにいたし、今も、これからもここにいる。おまえの帰るところに俺はいる」

 唇から離れた指が首に回り、引き付けようと力を籠める。
 今はどんなこともロイのやることなら逆らわずにいようと思った。
 引き寄せたいのなら、そうさせてやる。
 幾らでも安心させてやる。
 しがみつかれるままに躯を重ね、毛布から剥き出しの肩が冷えないように掌で覆った。


「俺は消えない」
「ああ、此処にいた」


 目を瞑って呟く顔が、祈りを捧げる者に似ていると感じた。
 こんな、殺伐とした職業に就こうとしている人でなしに、そんな顔をしてはいけないと思った。
 それは俺には正直居心地悪いことだったし、でもロイは聖人相手にだったらこんな素直な顔を見せたりしないだろうとも思ったし、要は俺がその辺に落ちている石ころだとしたら、石ころを大事に掌に載せ目を瞑って額に押し付けるのだろうと判った。
 疲労の色濃い顔を傍で眺めると、憐れみに似た感情が湧いた。
 瞑った目からは神聖と罪悪感、首に回る腕には愛しさ、体温から微かな劣情、こいつの置かれた状況を考えると自分の不甲斐なさ。
 息苦しい程いち時に襲って来る感情に眩暈がしそうで。


「おい、寒くなって来た。そっちに詰めろ」
「ああ」
 移動の為に浮いた躯の隙間に腕を差し入れ、黒髪の頭を抱き寄せて眠ることにした。
 今はただ、砂漠に焔の夢幻を生み出した男をこの世に繋ぎ止める為に。




fin.