接吻けて / くろいぬ
【ヒューロイ】【士官学校】




『接吻けて』


「ほんじゃ行って来るわ」
「ああ。身体に気を付けろよ」
 部屋の扉を前に挨拶を交わしたものの、ふたりの間には微妙な沈黙が降りた。
「じゃっ」
「うん。」
 困ったように眉をへの字の形にしたヒューズは、それでも小さな荷物を肩に負い、ドアを潜る間際にロイに笑顔を見せた。

 閉じた扉の前でロイは、ただただ立ち尽くしていた。
 去って行く人間の背中を見るのは不慣れなのだと、自分の反応の不自然さの理由を見つけ出してもまだ身動き出来ない。
 士官学校の生徒は全て軍属である。
 国家錬金術師である自分がことある毎に内戦鎮圧の作戦に参加するのにも、作戦参加の頻度が徐々に高くなって来ていることにももう慣れた。
 イシュヴァールを実際に目にしているだけに、戦況が悪化の一途を辿っているのも理解していた。
 だが自分が学校に残りヒューズが戦地に向かうというのは、初めてのことだった。
「あの馬鹿。軍事シミュレイションで高得点取り過ぎるから目を付けられるんだ」
 毒付きながら、立ち尽くす。

 身体には気を付けろ。
 生水は飲むなよ。
 兎に角目立つな(敵の前でも味方の中でも)。
 危なくなったらさっさと逃げろ。

 今までにヒューズに散々言われたことを、ロイは前夜そのまま繰り返した。
 何度繰り返しても言い足らず、ヒューズもまた、いつまでも大人しく聞き続けた。
 挙げ句、舌や耳が疲れる前に心が疲弊し、ふたり揃って随分早くにベッドに潜った。
 灯りを落として毛布を被り、不自然な沈黙のまま今朝を迎え。
『オハヨ』
『ああ』
 ぎこちなさを承知で交わした挨拶。
 そこまで思い出してロイは溜息をついた。

 取り残されるのは初めてだ。
 見送ることがこんなに恐ろしいことだなんて知らなかった。
 出兵を見送る家族の姿など五万と見たと思っていたのに、彼等彼女等の泣きながらの気丈な笑みの強さを真には知らなかった。
 遠くへ離れる人に送る、最後の接吻けにこめられる意味も。

「随分と間抜けな別れをしてしまったような気がする」
 部屋のど真ん中に突っ立って、交わした言葉が『じゃっ』『うん』とは。
「もう少しくらいはマトモな挨拶が出来た筈じゃないか」
 ヒューズも自分も馬鹿なのだと、ロイは思った。

 どしどしと、近付く大きな振動を床や壁が伝えて来るのに気付く。
 重たそうな軍靴の足音が、大股の早足で接近する音だ。
 ロイの凝視するドアノブがガチャガチャと震えたと思ったら、顔色を変えたヒューズが勢い良く部屋に飛び込み、背中全体で扉を閉めた。
「ヒュー……」
「あ、ああ、ロイ? どうしても忘れ物したって気がして」
「忘れ物?」
「そう」
 扉に貼り付いていたヒューズが、右腕と右足を同時に前に出しながら、ロイの側に近寄る。
「忘れ物は忘れ物なんだが、却って出て行きたくなくなりそうで、そこは少し不安なんだけど」
 ロイの目の前で、ヒューズは情け無いような泣きそうな笑い出しそうな、複雑そうな表情を浮かべた。
「ロイ」
 ヒューズは唇を押し付けるのと同時に、ロイの躯に腕を回した。

 驚いて薄く開いたロイの唇に、即座にヒューズの舌が押し込まれた。
 ロイは腕を慌てて振り解こうとしたがヒューズの拘束は強くなるばかり、熱い舌も深く深く押し入って来る。
「ン!」
 背を引き寄せられたロイは躯全体を仰け反らせた。
 ヒューズの眼鏡が鼻梁をずり落ち、ロイの睫毛に触れる。
「ン、ン!」
 眼を眇めながら、ロイはレンズのガラス越しにヒューズの閉ざした目蓋と睫毛を間近に見た。
 近過ぎて顔全体が視界に入らないので表情は読み切れないが、唇と舌は幾度も角度を変えては接吻けて、熱心さだけは疑いようもない。
 ロイは何とかヒューズの拘束から腕を抜き取った。
「ん」
 逃したくないヒューズが漸く目蓋を上げ、漆黒の瞳と虹彩の目立つ翠の瞳がぶつかり合う。
「……どーしても、これしてから出掛けたかったんだけど」
「馬鹿者」
 途端に自信をなくした声のヒューズの首に、ロイは腕を巻き付けた。
 今度は自分から唇を合わせる。

「帰り道を忘れるなよ」
「絶対覚えとく」

 口移しの熱と約束を、再びその顔を見るまで覚えておくから、だからまた接吻けて。






fin.