きらきら / くろいぬ
【番外】【エリシアロイ(!?)】




『きらきら』


 その子が私に気付き、見上げて来る顔が花のようにほころぶのを見た瞬間、「ああ、この笑顔を知っている」と思った。
「ロイおにーちゃん?」
「よく覚えていてくれたね。エリシア」
 それまで瞳が零れ落ちるんじゃないかと心配する程大きく見開いていた目を、細める。ふっくらとした頬が笑みの形を作り、唇の両端が引き上げられて小さな白い歯が覗いた。
 この笑顔を知っている。
 見上げる瞳を知っている。
 立ち尽くす私の前で、その子共はおかしそうに小首を傾げた。癖なのだ。面白いことを言う、とばかりに覗き込み、そしてまた微笑むのは癖なのだ。

『何でも知ってる大人のクセに、パパは時々おかしなことを言う、ってな。そんな顔で覗き込んで来るんだ。人形みたいに小さな掌で頬に触れて、舌っ足らずな口調で話しかけて来る。……お隣の猫が仔を産んだことを知らないなんて、パパったら! 庭のピンクのチューリップをまだ見ていないだなんて嘘みたい! ってな』

 そうだ、私はこの子のことなら何でも知っている。生まれて来た日のことも、初めて熱を出した晩のことも、生えかけの歯がむず痒くて噛んでいた歯固め玩具のメイカー名や、お気に入りのオルゴール曲、何色のリボンが好きなのかも知っている。

『なあなあ、聞いてくれよ。今日はエリシアちゃんがな……!』

 ことあるごとにかかった電話で、私は全て知っている。この子がどれ程愛されて、幸福そうに微笑む子なのを知っている。この子の笑顔が友人に、世界中誰より幸せな気持ちを与えたのかを知っている。

「ママ、ママ! ロイおにーちゃんが来たよ!」
 エリシアが駆け出し、ドアノブに飛び付くのを見た。そうだ、ドアノブの位置はまだこの子には高過ぎて、飛び上がって何度か手に引っ掛けるだけ。それを数度繰り返すと、やがて音に気付いた母親がドアを開けるのだ。
「まあ、いらっしゃい」
「元気そうで安心したよ」
 葬儀の時に挨拶を交わした切りだったヒューズ夫人はほんの少しだけ線が細くなり、それでも穏やかな表情を取り戻していた。私は手にした書類袋を掲げて見せた。



 セントラルに赴任して真っ先に手を付けた仕事は、ヒューズ准将に関する調査だった。殉職者の遺族年金や様々な手当てに漏れがないか、ヒューズの為した仕事の成果が全て適性に評価されているか。勲章ひとつ、表彰ひとつすら、年金や手当てに影響する可能性がある。ヒューズの生きた証の、カケラのひとつすら見落とすつもりはなかった。ヒューズへの評価であるならば、どんなに小さなことでも、軍からもぎ取るつもりだった。
 いい加減な男であったのに、ヒューズは部下に愛されていた。格別に記憶力に優れた女性部下が奴の業績をひとつ残らず数え上げ、それらを元にセントラル勤務の同期や同窓、士官学校時代に縁のあった者達が既に軍に申請していた表彰の嘆願書に、大きな文字で大佐、ロイ・マスタングと連名のサインをした。誰もが忘れ去りたいと願うイシュヴァール殲滅戦の記憶を呼び起こし、ヒューズに生命を救われた者が彼の功績を申請すると聞けば、証人として自分の名を書き連ねた。
 身分など、特権など、こんな時に使わずいつ使う?
 請願書を携え、自ら何度も軍総務部に足を運んだ。その甲斐があったかなかったのか、遺族年金の額には殆ど変化はなかったが、軍から病院への基金を新たに設置する際に、マース・ヒューズの名が冠されることになったと言う。

「ったく。金をより栄誉を与えようなどとは軍も中々渋いな」
 ぺらりと薄い紙切れ一枚。報告書をデスクの真ん中に置き呟けば、有能な副官がちらりと視線を寄越す。
「ホークアイ中尉、すまないがヒューズ夫人にこの報せを届けに行って貰えないか?」
「すみません、只今至急の書類の処理中で、暫く手を離すことが出来ません」
 硬質な声に拒否され思わず周囲に目を巡らせれば。図体のデカい男達が揃って目を逸らす。
「……さーってと、始末書書かなきゃなあっと」
「ちょっと腹が痛いんで今日は定時で帰らせて頂くとしますか」
「ボク経理課の電算機のが調子悪いとかで呼ばれてるので……」
「部対抗将棋トーナメントがそろそろ。東部代表の名前背負ってっからなー」
 席を立つ者、背を向ける者。
「大佐、ご自分で行かれては如何ですか」
 気付けば背筋の伸びた副官に真っ正面から見つめられて。
「大佐ご自身がお報せに行った方が、きっとお喜びになりますよ」
 中尉の生真面目な瞳が思いがけずに穏和な色を帯びる。
 誰が喜ぶと?
 見返した中尉の瞳に睫毛がかかり、陰が色濃く映った。
「行ってください」
 その声音も常とは違う柔らかな響きがした。子供に向かって言い諭すような目と声だったと気付いたのは、背を押されるようにして出た司令室の扉が閉まった後のことだった。




「あの人の名が残るんですか」
「ヒューズの、准将の命とは比べ物にもなりませんが」
 孤児を優先して受け付ける病院への基金の話を聞いたヒューズ夫人の眼が、遠くを見た。
 通された居間には夫人の淹れた紅茶の湯気と香りが漂い、大きく切った窓からは夕陽の色をした空が見えた。出窓の腰板に飾られた銀の写真立て、鮮やかな色の木製の玩具が、この部屋に明るい空気をもたらしている。
 大人の話の最中は邪魔をしてはいけないと躾られているのか、エリシアがしきりにドアの陰から顔だけを覗かせていた。顔を半分出して大きな瞳で真剣に見つめて来たかと思うと、今度は替わりに縫いぐるみの顔を出す。彼女がそれを繰り返すのを見るうちに、私は思い出した。
「私の贈った縫いぐるみか!」
 思わず声に出すと、縫いぐるみを抱いた子供が満面の笑みを浮かべて駆け寄って来た。エリシアが生まれてすぐに贈ったうさぎの縫いぐるみは、くたりとくたびれながらもグラスアイをきらきらと光らせていた。
「ローイ」

『ローイ』
『何だ?』
『ロイー?』
『何だと言うのだ!』
『呼んでみただけだ、ローイ?』
『軍用回線で馬鹿なことで長電話するなッ』

 ロイ・マスタング。
 マスタング大佐。
 それ以外の呼称を久しく聞いていなかったような気がした。親しい女性達は勿論名を呼ぶが、心を奪い取ろうとして音にする名は、甘ったるくはあってもこんなに柔らかに響きはしない。

「ローイ!」
 縫いぐるみごと飛び付くようにぶつかって来たエリシアを諫めようとする夫人を、止めた。
 幼児の柔らかくて重たい体を受け止め、両脇を支えて膝に乗せた。うさぎの耳の間から、エリシアはまたいたずら気な瞳を覗かせる。
「この子の宝物なのよ」
「私が贈ったことを憶えて……る訳はないな、幾ら何でも」
 夫人とエリシアが共に笑った。
「あの人がいつも言い聞かせていたから。このうさぎは初めてのお友達としてロイに贈って貰ったものだよ、これは歩き始めたと伝えたら贈ってくれた靴、何時かは風邪をひいたと電話したら花を贈って貰ったと。他にもあなたのことは、私達何でも知っているわ」
 夫人の指さす先、磨かれた硝子の飾り棚の中に、エリシアのファーストシューズと思しき、柔らかそうな白い鹿革の靴と並び、華奢なサテンの靴が置かれていた。
 あれは、イーストシティの中でも老舗の靴屋で、店に入ったはよいが何をどう選べばよいのか迷いに迷い、店の主人に赤子の靴はすぐに履けなくなるのだと説明されても、だから大きなサイズを選べという意味なのか、安物にしろというのか、大して汚れないから飾りの沢山ついた物でもよいのだという意味なのかも判らず、要はこちらの懐次第と暗に言われて、とにかく一番きれいで一番女の子が喜びそうなものをと頼んだのだ。
 一歳になるやならずやの乳児に、女の子らしさも選ぶもないものだったが。

「『どんな顔でこれを選んだのか、目に浮かぶ』ですって。女性にアクセサリーを選ぶのは得意だろうけど、赤ん坊への贈り物なんてきっと初めてだろうから。きっと途方もなく困った顔をしたんだろうな、ですって」
「それってほんとう? あたしの靴選ぶとき大変だったの? ローイ?」
 ほんの僅か音を延ばす、ヒューズの口からだけ聞いた己の名。問いかけるような、甘やかすような。ヒューズしか知らない呼び方を。
「世界で一番きれいな靴を贈りたかったんだ」
 声が少しだけ掠れたが、エリシアは気にした様子もなく頷いた。
「きれいで大好き。でももう履けないの」
 膝の上の子供は、申し訳なさそうに自分の片脚を上げて見せた。小さな脚の先の小さな靴は、それでもしっかりと大地を踏みしめる力を持っているのだ。左右揃えても片手の中に包み込めるような、赤ん坊の靴はもう入りはしない。
「これから君の足に合う靴を作って貰いに行くかい?」
「ううん、いいの。あたしがあの靴を履けなくなって、怒ってない、ローイ?」
「怒るものか、君が大きくなって嬉しいよ!」
 思わず笑い出す私の瞳をまた覗き込む。
「だってパパが、ロイは怒りん坊さんだって言ってたよ。お靴選びも、きっとぷんぷんしながらだったって。ほんとう?」
 呆気に取られる。
 そうだ、あの時店主は靴を幾つも幾つも持って来た。持って来させたのは自分だが、ミニアチュールのような小ささの靴が目の前に並んで行くのを見るうちに、途方に暮れた気分になったのだ。どれも砂糖菓子のような甘い可愛らしさで、手に触れて確かめるのも怖かった。決して不器用ではない自分の手が、酷く無骨で不作法をしでかしてしまいそうに思えて、怖くて苛立ちを感じたのだ。
「怒ったのは上手に靴を選べない自分に腹が立ったからなんだ」
「ローイ? たんきはそんきって、パパ言ってたよ」
「気を付けよう」
 ヒューズと同じ音で私の名を呼ぶ子供が伝える言葉を、胸に刻んでおこうと思った。

 ふいに空気が動いたのに気付き目を上げると、夫人が身を震わせて笑いを堪えていた。
「切れ者で計算も速いが負けず嫌いの怒りん坊、でも妙なところで律儀で生真面目。ローイ、あなたはあの人が言っていた通り。私達、あなたのことを沢山知っているわ。学生時代からずっと一緒だったんだって、嬉しそうに教えてくれたから」
 笑いに涙を滲ませながら、夫人は私の名を呼んだ。
「レディ達にどんなことを奴が吹き込んだのか、気になるところだね。……私も。ヒューズがどれ程あなた達を大切にしていたか、私も知っているよ」
 声が蘇る。繰り返し繰り返し、伝えて来た声を思い出す。遠く離れても毎日のようにかかって来た電話の声を。

『よお、ローイ?』

 もう一生、あんな風に呼ばれることはないのだと思っていた。

「ローイ? どうしたの?」
「何でもないよ。やはり今度、君の靴を造りに行こう。君が一緒に行ってくれるなら、私も困って怒り出すようなことにはならないと思うよ。行ってくれる、エリシア?」
「うん!」

 幼い子供の指が、頬に触れ続けた。ぐいと横に擦る指の軌跡が冷たく感じられたのは、もしかして目から水が垂れていたからなのかもしれないと、後から思った。
 柔らかな声、柔らかな指。
 電話の向こうから何度も語りかけて来た声が伝えていたものの優しさを、その日私は漸く知った。



fin.