君のイタミ / 白猫
【ヒューロイ←ハボ】 【中央移動以降】



『君のイタミ』




「大佐、入りますよー」
ノックの代わりに、爪先で軽く扉をとんとんと蹴ってから、塞がった両手をなんとか使って扉を開いて部屋に滑り込むと、独り執務室のデスクに向かっていたロイが、ふと顔を上げて、そのまま軽く目を見張った。
「ハボック? なんだ、それは」
その視線が、両手に抱えた大きな紙袋に注がれる。今にも転げ落ちそうな果実が覗く袋からは、部屋中に充満するかのような勢いで、熟れた果実の濃厚な香りが漂っていた。
「いえね、さっき、巡回中に物売りに会いまして」
陥没していた道路に荷車の車輪をとられて立ち往生していたのを、居合わせた数人で力を合わせてなんとか持ち上げたのだと伝えると、呆れた表情を浮かべたロイが、眉を顰める。
「それは結構だが。その果物の山は一体どうしたんだ? 僅かな手間にわざわざ手間賃を要求したのではないだろうな」
「ンなことするワケないでしょうが。その荷車が傾いたときに、乗せてあった果物が、随分と転げ落ちちまいまして。思いきり熟してたもんスから、潰れて売り物にならなくなっちまったんすよ」
「…それで?」
「すっかり落ち込んでる爺さん見ちまったら、放っておけないっしょ?」
「全部買ってきたのか?」
「おかげで財布すっからかんです」
「そりゃ大変だったな」
「…経費で落ちませんかね?」
「馬鹿か」
「今月の生活費、これでなくなっちまったんスけど」
「煙草を止めたら食費くらいは出るだろう」
「御冗談を。煙草止めるんなら、食事ガマンします」
「ならそうしろ」
「…ひでえ上司」
「何か言ったか?」
「いえ、別に」
どうせ期待なんかしてませんよ、と呟くとキレイな顔を顰めたロイが面倒臭そうに手を振った。
「おい。それ、さっさと何処かにもっていけ。部屋中に匂いがつく」
「あんたねえ。…まあ、いいっすけどね。あとで少し剥いてきますよ。旨そうっすから」
「ああ。ハボック」
「はい?」
くるりと踵を返して、扉から出ていこうとした途端、背後から呼び止める声。
「ひとつ置いていけ」
「は?」
「それ」
「…剥かないと食えませんよ?」
「いいから」
「いいっすけど」
両手に紙袋を抱えたまま戻ると、そのままそっとデスクに下ろして、いちばん上に乗っていた丸い果実を一つ差し出す。大きな掌に乗る濃い紫色をした、見かけない果実。
「珍しいでしょう? って言ってもあんたは、もともと果物なんか知ってそうもないスけど。なんだか、東の方の果物とかで、まだ固いうちにこっちに送るそうなんスけど、売りに出す頃には、こんな風に熟しちまうんだそうで」
紙袋を抱えていた間、ずっと吸えずにいた煙草をポケットから取り出しながら、今聞いて来たばかりの話を伝える。
「直接中央に運ばれて、あとは熟しちまうから、地方にまで出回らないらしいですけどね。東って言うワリに、向こうでも見なかったですし。水分たっぷり含んでいてなかなか旨そうな…って、えっと、大佐?」
黙ったまま、果実を見つめていたロイが、おもむろに唇を寄せて、かぷりと噛んだ途端、掴んだ手を伝って流れ落ちる濃い紫色の果汁。
「うわ、大佐っ。あんた何やってんスか。ほら、ちょっと、それ早く拭かないと全部紫になっちまうって」
慌てて大判のハンカチを取り出して差し出すと同時に、デスクの上の書類を脇に寄せる。すぐに受け取られると思ったハンカチがいつまでも手の中にあるのを不審に思って顔をあげると、何か不思議なものでも見るかのような顔で、ロイが果実を見つめているのに気付いた。
「…大佐?」
「ああ。悪い」
そのまま、差し出されたハンカチで唇を拭うと、手にしていた果実をデスクに下ろしてから、今度は手を拭う。ロイのその一連の動作が妙に緩慢で、思わず眉を顰める。
「大佐? どうしたんスか?」
「いや。別に」
「別にってカオじゃないっすよ。不味かったスか?」
「いや。旨い。こんなに旨いもんだったんだなと思っただけだ」
なんとなく、微妙な言い回しに、何かが引っ掛かった。
「大佐? これ、知ってるんスか?」
「ああ」
そして、何気なく続けられた言葉。
「イシュヴァールで見た」

不意に静かになった部屋に、窓越しの暖かい午後の陽射しが広がった。
「…イシュヴァール?」
「ああ。初めて見た時は、こんなに旨そうには見えなかったんだが」
不思議そうな顔を僅かに傾けて。
「いや。それも私の所為だったのかな。始めての任務のときで、加減が判らずに自分以外のものは全部燃やしてしまってね」
静かな口調と、何処か遠くを見つめる眼。
「先に食べておけばよかったんだがな。ああ、こんな所に何かなっているのだなと思いながら、焔を出したんだ。気付いたときには、すべてが黒焦げでね。おかげでコレも食べ損ねた」
そして、ほんの僅かに笑うひと。
「あとでヒューズにさんざん叱られた。この木の隣で、渇いて倒れていたものでね。考えナシって罵るんだ、アレは」
「大佐」
「これだけ水気があるなら、確かに、渇くこともなかっただろうな。漸くあいつが何を怒っていたのか判ったが…」
少し、遅かったかな。
小さな声。多分、声にはなっていなかったのだろう。唇だけが、微かに動いて。
「ああ、ハボック。引き止めて悪かったな。私はもういい。あとは食堂にでも持ち込んで希望者にでも配って来い。そのあとで、伝票切って経理に廻しておけ」
「大佐」
「早く行け。匂いが籠ると言っただろう」
椅子から立ち上がって、くるりと背を向けたロイが、窓を大きく開け放った。途端、流れ込んでくる風に嬲られて、黒髪が揺れる。僅かに覗く横顔に、切ない程に柔らかい表情を浮かべて、蒼い空を見上げるひとに。


「寒くなってきましたから。早く閉めて下さいよ」
「ああ。判っている」

抱き締めたい思いを必死に抑えて、ゆっくりと紙袋を抱え直す。
今はまだ、想い出に浸る人を、此処に連れ戻すまでの力が己にないことを知っているから。


それでも。いつか、このひとのイタミをすべて消したいと。
ただそれだけが望み。



fin.