喧嘩 / くろいぬ
【ハボロイ】







『喧嘩』



 喧嘩をした。

 喧嘩と言っても、ハボック相手のことだから長引くような大したものではない、のだ。
 夕べの奴の部屋での情事の際に、バスを使って濡れたままの髪でことに及んだ。
 部屋は暖めてあったし、毛布の中も、奴の躯も温かかった。
 それを。

「起きました?」
「何の匂いだ」
 目覚めた時にはベッドの隣は空っぽで、気配を辿って向かったキッチンは甘い香りの暖かな湯気に満ちていた。
「特製ホットワイン。赤ワインと蜂蜜、オレンジ、香り付けにラム酒とオレンジピール、クローヴ、シナモン、アニス、カルダモン……。暖まりますよ」
「ほう」
 鼻をくすぐるスパイスと目の前の図体のでかい男の笑顔に、つい頬が緩んだ。
 オレンジの香りがまとわりつく奴の指先が頬に触れ、背に回った。
 朝っぱらからワインの香気に酔ったのか、堅い胸と肩を包む糊の効いたシャツの肌触りの良さに、頬を擦り付けたくなった。
 頬ずりをするとハボックの胸の振動が、奴が小さく笑ったことを伝えて来た。
「うちのばあちゃん秘伝のレシピの、風邪の特効薬」
「風邪? 誰が?」
「大佐が。毛布はだけるから眠りながらくしゃみしてましたよ。くしゃん、て言ったと思ったら俺の方に猫みたいに擦り寄って来て……」
 顔を胸から上げてハボックを睨み付けようとしたが、後頭部をぐしゃぐしゃにかき回されてまた奴の肩口に頬を押し付けることになった。
 にやけているだろう男に釘を刺すひとことをとも思ったが、首筋から昇る人肌の温度を吸い込み、その心地よさに免じて目を瞑ってやる。
「ああ、髪も寝癖になってる。ちゃんと乾かしてあげればよかったですね。あんた、ぽたぽた雫垂らす程濡れたままだったし。カンジて首を振る度に、冷たい飛沫が飛んで来て」
「……」
 大きな掌がタオルで髪を拭き上げる仕草で私の頭をかき乱す。
「タオルで丁寧に拭いてあげればよかった。その後にも沢山汗かいてたし、寝る前に躯拭いて肩まで毛布にしっかりくるんであげなきゃならなかったんスかね」
 今度は背中を擦られる。
 冗談ではない、そんな面倒をみられて堪るか。
 それではまるで ───
「まるきり子どもみたいですね」
 ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した手に肩を強く引き寄せられて奴の躯に密着する。
 なのに背中を撫でていた掌は、するりと腰まで降りて来て、性的なニュアンスを漂わせる不埒な動きを見せた。
 冗談ではない。
「子どもみたい……」
「ハボック、おまえが母親じみているだけだろう」
 勢いよくハボックの躯を突き飛ばそうとした瞬間に、私を拘束する腕から力が抜けた。
 ハボックはくるりと背を向け、鼻歌混じりに鍋に向かう。
「はいはい、文句言わない。風邪はひき始めが肝心なんすから、ホットワインで躯をよっく暖めてください。慣れないスパイスがあっても薬と思って諦めて、ああでも美味いと思いますよ」
 機嫌よさそうに、カップにワインを注いでいる。
「子どもの頃、俺が風邪ひきかけるとこれをばあちゃんが作ってくれて、いい子にしてないと治らないよ、ベッドから抜け出て外に遊びに行ったりしたらいつまで経っても元気にならないよって、脅されたんですよね。 ─── はい、大佐」
 突き出されたカップの中で、濃い葡萄色の液体の表面で蕾型のクローヴが浮かんで回っていた。
 心地よい刺激の混じり込む甘い香りに包まれて眩暈がしそうだった。
「風邪にも寝冷えにも効果抜群の特製……」
「私は風邪などひいていない」
 ハボックはまた笑おうとした。
「髪が濡れたぐらいで風邪などひくか、馬鹿者。これでも躯が資本の軍人だ」
「すみません、じゃ、風邪をひかないようにコレ飲んでください」
「要らん」
「大佐、」
 腕組みをして、カップを受け取らないと意思表示をすると、ハボックは戸惑いを表情に浮かべた。
「何がタオルで拭けばよかっただ。お互いヤりたくてさっさとシャワーを浴びているというのに、ちんたら髪など拭いていては気が削がれるだけだろう。子どものようにタオルで巻き込んで撫で回したいのか? 萎えること、この上ない」
 そうだ。
 放っておけばこいつは、私が何も出来ないとでも言いたげに世話を焼き続けになるのだから。
 タオルで拭いてパウダー叩いて毛布にくるみ込んで子守歌でも歌い出し兼ねない。
「汗をかいて躯が冷えただと? 汗もかかないようなセックスのどこが面白い。不真面目極まるな!」
「不真面目って……、俺はいつだって真剣にヤってますよ、汗だくで!」
「では私が汗をかいたとて、おまえが文句を言う筋合いではないな」
 相変わらずカップを持ったままのハボックの口の端が、徐々にへの字の形に引き下がって来た。
「文句なんかありませんよ。ところで、取り敢えずこいつを飲んじゃあくれませんかね。美味いんで」
「ベッドから飛び出すような子どもを寝かしつける特効薬か? 遠慮する」
「大佐」
 ハボックは目を瞑り一度深く息を吸い込んだ。
 大きな深呼吸の後にカップを持つ手の反対側の腕で、胸のポケットから煙草を一本取り出し咥えて火を付ける。
「大佐。あんたがご機嫌を損ねてるのは判りますけどね、何を怒ってるんだかそろそろ俺にも理由を教えちゃ頂けませんかね。出来れば頭脳派とは程遠い俺にも理解が出来るように、簡潔に」
「訳が判らないのはこっちの方だ。旨い酒と美味と互いが気持ちよく過ごせるベッドマナーを嗜んだ大人の時間を楽しみに来たつもりが、うっかりしてたら、おおベイビーお眠りなさいなんて言われる羽目になりそうだ。冗談ではない」
「まあ、そういう突っかかり方がオトナじゃないのは確かですねえ」
 甘い甘いワインの湯気をたゆたわせながら、ハボックは小馬鹿にしたように私を見下ろし、辛くて苦い煙草の紫煙を天井に吹き上げた。
「普段から世話を焼かれっぱなしになってる癖に」
 鼻で嗤う。
「……おや、大佐。どちらへ?」
「司令部に決まっているだろう」
「さいですか」
 軍服を置いたままの寝室に戻っても、追い掛けも来ない。
 昨夜脱ぎ捨てた軍服は、いつも通りに皺を作らぬように椅子にかけられ、畳まれて置いてあった。
 今まで有り難く感じていたその気遣いが、今朝は煩わしいものに感じられた。


  ─── それだけだ。
 大した出来事ではないのだと、判っている。
 寝室に戻る時も奴の部屋を出る時も、ドアを叩き付けないように心掛けた。
 奴は私の機嫌が直るタイミングを見計らうのがとても巧いから、その内、何もかもを忘れたかのようにやって来て、私の隙をくすぐって丁重に部屋に誘うのだろう。
 あの甘くて豊かな香りをたたえたワインを暖め直し、笑顔で差し出し私にそれを飲ませることに成功するのだ。
 いつものことだ。
 私の癇癪が行き違いの原因になった時にも、奴のした手に出る態度と笑顔に我が儘上司が丸め込まれた振りをするのも、いつものことだ。
 奴の丁重さがほんの薄皮いち枚きりで、私の反応のひとつひとつを面白がったり分析しながら見つめているのも、ハボックのそれに私が気付かぬ振りをするのも。
 溜息をひとつついた。

 風邪だと?
 奴と寝る前に浴びたシャワーが原因で?
 抱き合って汗みずくになったから?

 それではまるで、本当に私が、付きっきりで面倒見なければ風邪をひいてしまうか弱い子供のようではないか。
 髪を乾かす間も惜しいとすぐに抱き合いたがるのが、私だけのような口振りじゃないか。
 心臓が震える程のセックスで膚に浮かべた汗を、奴の声を聞きつつゆっくり乾かしながら眠りに就くのが好きなのだと、口に出さねば判らぬとでも言うつもりか、口に出させるつもりか、馬鹿者め。
 甘いワインで誤魔化されてやるものか。
 暖かに薫りをたゆたわせるワインなどで、誤魔化されてやるものか。

 窓の外に広がる水色の空を見上げた。
 溜息の種が尽きない。
 水色の空を背景に窓硝子に映る自分の顔に、別の顔が重なって見える。
 大柄な男の明るい金髪と青い瞳の色。
 気分の上下を表情からシャットアウトすることにほぼ成功している癖に、私に思い知らせる為だけに曲げられた、への時の口元、さもしょうがないとでも言いたげな間合いで咥えた煙草。

 何が不愉快かと言って、奴のその顔に自分の精神が揺るがされていることを認めること程、悔しいことはない。
 あんな顔しなくていいじゃないか。
 あんな顔を私に見せなくていいじゃないか。
 あんな顔をさせることなかったじゃないか。
 あんな顔させるつもりなんかなかった。
 あんな顔、あんな顔、私しか見たことがない。 
「ああ、馬鹿みたいだ」
 深くついた溜息がデスクの上の書類を撫でた。
 書きかけの書類はペン先が引っかかって染みが出来ている。
 多分、今書き直しをしたとしてもまたペン先に荒れが伝わりまた染みを作ってしまう。
 既に備え付けの屑籠は、くしゃくしゃに丸めた紙屑で一杯だ。
「八つ当たりとは全く、本当に馬鹿みたいだ」
 朝から執務室に籠もりっぱなしの癖に一向に捗らぬ仕事。
 あんな顔、あんな顔。
 自分はもっと酷い顔を奴に見せていたのだろう。
 奴はもっと酷い気分でいるだろうか。
 それとも、気まぐれ上司のいつもの癇癪だと笑っているのだろうか。
 癇癪が静まればすぐに懐柔出来るだろうと、たかをくくっているのだろうか。
 懐柔しに、来てくれるのだろうか。
 誤魔化しに来てくれるのだろうか。

 感情のコントロールが利かない。
 苛立ちと理不尽さへの怒り ─── 膚が汗ばむほど抱き合うのも好きだが、濡れた髪を拭かれる間何も考えずにただ奴の体温だけを感じることも嫌いではないと、認めている自分が救い難い ─── それら全てが、自分に向かって来る。
「本当に、馬鹿みたいだ」
 こんなにすっきりとしない気分を長引かせるつもりなど無いのだ。
 いざこざを軽くいなして流したり、ことによっては更に相手の感情を逆撫でたりといったことは私の得意分野の筈ではなかったか。
 何故、奴だけを、あしらえない?
 何故、上っ面だけ、忘れた振りや機嫌を直した振りが出来ない?
 奴のことで頭が一杯。
 これではまるで、目の前の恋しか見えないティーンエイジャーだ。
 相手の笑顔ひとつで有頂天になったり、表情が曇るだけで不安になる、びくつき怯える不器用なティーンエイジャーだ。



「大佐」
 間近に声を聞き、書類に落としっぱなしの目線を上げると、有能な女性士官がデスクに新たな書類を積み上げる所だった。
「先日の会議の議事録です。お目を通しておいてください」
「至急の書類ではないのだな」
「至急提出の必要のある書類は朝一番にお持ちしています。……今大佐がデスクに広げているのがそれのようですが」
 中尉は書きかけの書類にちらりと目を落とした。
「そうかね。優先順位は間違えてはいなかったようだな」
「乱れてますね」
「ん?」
 インクの染みの落ちた書面を見ながら彼女は言った。
「いえ。ざっと下書きをしてくださればこちらで適宜内容を修正してタイプします」
「ああ……。頼めるかな。では書き直そう」
「そのままの書類で結構です。大佐、続けてください。多少読み辛くても解読します」
 中尉の視線が屑籠の中身から扉の方へと走り、そして彼女は短い溜息をついた。
「今日の司令部ではゴミ箱を山盛りにするのが流行っているようです」
「なんだね、それは」
 執務室の扉を薄く開き、ざわめく司令室を覗き見た。

「あ」
「おまえ、また書き損じかよ」
 ハボックのデスクに置かれた書類を、ブレダ中尉がひらり指先でと取り上げた。
「先刻から週報の用紙何枚無駄にしてんだよ。書きかけでボーっとしてっからインク垂らしたり、吸いかけの煙草を落としたりするんだろ」
「煩え、返せ」
 ブレダが空に持ち上げた書類を、ハボックは椅子に座ったまま腕を伸ばしてひったくり、くしゃくしゃと丸めた。
「えい」
 振り向きもせずに背後に放り投げた紙屑は、狙い違わずゴミ箱に吸い込まれるところであったが。
 こんもりと山になった紙屑に阻まれ床に落ちた。
「駄目じゃん」
「コースはド真ん中ピシャリだったろうが」
 むすっとした顔付きで席を立ち、的を外れたつぶてを拾い上げるハボックに、ブレダが声をかけた。
「シケてんなあ、おい。彼女と喧嘩でもしたか」
「そんなんじゃねえよ」
「あ、彼女にはフられたんだっけ?」
「フられる心配する相手すらいない奴に言われたかねえな!」
 大きなひと声と共にぎゅうと紙屑の山をゴミ箱の中に押し込む。
 再び席に着いたハボックは、背もたれに躯を預け司令室の天井を眺めた。
「俺が悪いんだろーか」
 キイ、と、ハボックの寄りかかる椅子の背が軋んだ音を立てた。
「おう。おまえが全部悪いに決まってる。もう許して貰えないだろうから諦めろ」
「許しては、貰えると思う」
 ヌケヌケと、とブレダがハボックに消しゴムを投げつけた。
「でも心の底で思ってることがバレたら許して貰えねえかも」
「おまえが頭の中で繰り広げてる妄想がバレたらか? そら無理だな」
「それだけじゃないかも。もっと……」
「もっと?」
 それまで素知らぬ振りで聞き耳を立てていたファルマン准尉が、眉を顰めてハボックを見る。
「もっと怒らせたい。笑わせたい。甘やかしたい、嫌がらせたい。安心させたい、怖がらせたい、色んな顔見たい。俺の知ってること全部あの人に知って貰いたい。俺しか知らない顔もっと見たい。あの人のこと全部知りたい。本当は俺のこと以外考えて欲しくない。俺のことで頭が一杯になってしまえばいい。俺のこと怒ってる間はきっと腹立てて苛々むかむか四六時中俺のこと考えてるだろうから、実は少し嬉しい。俺の頭なんか、何で怒らせちまったんだろでもツンと顎を反らして睨む顔はよかったいつになったら機嫌直して貰えるだろ本当に機嫌治るんだろかって、とっくにあの人一色だから」
「おまえな」
 ひと息で言ってのけたハボックにブレダが冷えた声をかけた。
「おまえ、仕事しろよ」
 聞いているだけで腹一杯になったらしいファルマンが、何ごとか慰めるような声をハボックにかけてから自分のデスクに戻って行った。
 同じく自席に戻ろうとしたブレダが、去り際にハボックの肩に手を置く。
「ハボ」
「なんだよ」
「さっさと謝っちまえ」
「ブレダ。おまえ、女いないのが不思議なくらいいい奴だな」
「煩いわ!」

 日常的な賑やかさを取り戻した司令室との境界の扉をそっと閉じると、背後から紙を捲る軽い音と涼しげな声が聞こえて来た。
「職務に専念出来ないのは困ります」
「そうだな」
「頭がひとつのことで占められてしまっているようです」
 誰の頭がだ?
 彼女は腕に抱えた書類から目を離そうとしない。
「マスタング大佐」
「何だね?」
「状況の改善への努力をお願いします」
「待て、私がかね?」
「はい。部下の管理は上官の責任です。大佐が責任を持って、ハボック少尉のこれ以上の紙屑生産をやめさせてください。さもないと」
 さもないと?
 ホークアイ中尉が真っ直ぐな瞳で見つめて来た。
「余り可愛らしいことをなさっていると、付け入る隙アリと見なしたくなりますが、宜しいですか?」
「な……?」

 脳裏に浮かび上がる、金髪長身の男と、すんなりとした姿態を持つ、目の前に立つこの女性。
 寄り添ってしっくりと来る。
 彼女ならば、甘いワインを味わいつつ、却ってあの男を大人しくさせてしまうことも出来るのだろう。
 あの図体のでかい男に子守歌を歌って聞かせて、寝かしつけることだって出来る。
 柔らかさと生真面目さの両方を併せ持つこの女性なら、奴を甘やかすことだって、窘めて御することだって、

 不意に、中尉が横を向いて表情を隠した。
「大佐、冗談です。真剣に検討をしないでください。大事なものを奪われた子供のようなお顔をされては困ります。それに検討するパターンがひとつだけでは片手落ちというものです」
 肩が震えている。
 中尉が、笑いを堪えている。
「一体……」
「頭を一色に染め上げる勝負は痛み分けのようですから、大佐には職務上の義務を優先して頂きます」
「ホークアイ中尉。君は私をからかっているのか?」
「いいえ」
 中尉が笑いを納めた。
「普段傍若無人なひと達が不器用過ぎて、可哀想になっただけです」

 指先までぴんと伸ばしたきれいな敬礼を残して、中尉は執務室から出て行った。
「……上官の管理責任って。それなら中尉も同罪じゃないか」
 執務室と人の気配のざわめく司令室とを隔てる扉を眺め呟いた。
 より可哀想な方に味方したという訳か。
 彼女は私とハボックのどちらを、より可哀想な側と見てとったのだろう。
「第一、私の頭までが一色だと……?」
 仕事中に独占欲丸出しにしたハボックと同列視されるとは。
 まるきり見透かされているとは。
 どうしよう。
『俺の頭なんか、とっくにあの人一色だから』
 あの言葉を聞いた瞬間に感じた満足感を、彼女はきっと勘付いてる。

 席を立ち、硝子に映る自分の姿を見ていられなくなり窓を開け放った。
 清しい風が顔をなぶるに任せる。
 状況の改善への努力。
 そんなもの、手段が思い浮かばないからこんなにも。

 どうすればよいのか、思考放棄したくなる程に。

 風に煽られた書類がデスクから落ちる音に我に返った。
 のろのろと動いてそれを拾い上げ、元通りの場所に置く。
 書きかけの書類、積み上がる議事録。
 目の前の仕事から取りかかろうと溜息混じりでペンを取った。




「ホークアイ中尉。タイプを頼む」
「はい、大佐」
 勢いよく開いた扉が壁に当たって跳ね返り、軍靴の踵が高い音を響かせた。
 中尉に書類を渡した途端、意識的にただした姿勢が崩れる。
「くしゃん!」
「大佐」
 連続するくしゃみが収まってから鼻をすすり上げた。
「風が冷えて来たことに気付かなかったんだ」
「……お大事に」
「議事録は明朝目を通すことにする」
 帰宅の為、コートを取りに向かう途中でハボックに声をかける。
「風邪をひいた。よい薬を知らないか、ハボック少尉?」
「……特効薬がうちにありますよ」
 片方だけ眉の角度を上げた、面白がるような顔付きを、知らぬ振りした。
「ちょっと待っててください。書類、一分で片付けますから」
「いっぷん!?」
 飲みかけのお茶にブレダ少尉が咽せるのも後目に、ハボックは猛烈な勢いでペンを動かし始める。
「急がないと置いて行く」
「無茶言わんでください」
 コートを手にした中尉が傍らに立つことに気付き、受け取りながらつい訊ねた。
「努力を認めて貰えるだろうか」
「目覚ましい改善振りかと」
 澄ましたように答えてから、表情を和らげる。
「大佐、お大事に」
「温かくして休むことにするよ」
 言ったそばからまたくしゃみを。

 司令部の廊下に靴音とくしゃみの両方を響かせ歩く。
「大佐! 待ってくださいよ」
 追い掛けて来る大股歩きの足音。
「シャワーの後、髪を拭かせてやるぞ」
「毛布に肩までくるみ込んで子守歌も歌ってあげますよ」
「調子に乗るな」



 もう一度、朝の甘い薫りの中から
 始めよう






fin.