渇望-2 / 白猫
【ヒューロイ】【イシュヴァール戦時】




『渇望2』




「ローイ!」
突然かけられた明るい声に、それまで私を取り巻いていた空気が、がらりと変わった。


イシュヴァールの痩せ枯れた地に国軍のテントが並ぶ。当初、すぐに終わるだろうと予測されていたこの戦いが、どうしようもない泥沼に落ち込んでしまったのだと誰もが気付いてから、もうどれだけの月日がたったのだろう。
すべての兵士が疲れ果て、どんな手を使ってもいいから、とにかく早く終わらせてくれと願っていた筈の戦いは、殲滅戦という形を取ってから、またその様相を微妙に変化させていた。戦いを嫌がり、あれほどイシュヴァールの反乱軍を憎んでいた筈の兵士たちが、今その悪意の対象に持ってきているのは『人間兵器』と呼ばれるようになった国家錬金術師。なかでも、指1本動かすだけで村ひとつを焼き払ったという噂が広まってからの『焔の錬金術師』の悪評は、いっそ笑える程に高まったと言っていいだろう。
今日もまた、新しい任地となったこの場所に軍用車で降り立ったときから、突き刺さるような視線を感じていた。尤も、今更そんなことを気にする筈もなく、すぐに当地の司令官との作戦会議。それを終えてテントを出た途端に向けられた悪意と畏怖。もうすっかり慣れっこになってしまったそれらを無視して歩き出した私に突然掛けられた声。それは、此の地にいると聞いていた親友の、場にそぐわない程に明るい声だった。



「こんなところで何をしているんだ? ヒューズ」
「うわ。冷てぇなァ、ロイくんは。お前がこっちに来ているって聞いたから、わざわざ許可貰って此処迄来てやったってのに」
俺のテント、あーんなに遠いんだぞー、と、遥か遠くに見えるテントをヒューズが指し示すのを冷たく見遣ってから。
「そんなことを頼んだ覚えはない」
「あーもうほんっとお前変わってねえなあ」
一言に切って捨ててやったというのに、何故だか嬉しそうに笑うヒューズに、頭をくしゃくしゃと掻き回される。
「なっ、おい、何をする、ヒューズ!」
「お前、髪バシバシだぞ。勿体ねえなあ、せっかく綺麗な髪なのに。ちゃんと手入れしてんのか?」
「こんなところでそんな余裕あるわけないだろう!」
「何故だ? お前なら多少の我侭きくだろが。まあいい、あとで秘蔵のシャンプーとリンスやるから、きちんと洗えよ」
「ヒューズ!」
叫んだ途端、背後で司令官が立ち尽くす気配がして我に返った。こんな場所で騒いでいては、いい見せ物でしかない。慌てて振り向こうとしたところを背中にまわされた腕に拘束されて、カッと頭に血が昇る。
「おい、ヒューズ!」
「お前が無事でよかった」
「…な…」
何をする、と言おうとした声が、ぎゅっと抱き締められて喉元で詰まった。
「ヒュー…」
周り中の兵士達の好奇の視線が痛かった。このままだと、こいつまで、あの悪意を向けられてしまう。なんとか離れようとして力をこめても、その腕は背中にまわされたまま、微動すらしなくて。
「ロイ。お前が無事でよかった。なぁ、ロイ」
何度も繰り返し呼ばれる名前。もうずっとその名前で呼ばれることはなかった。元々、そんな風に私を呼ぶのはこの男だけで。まるで魔法をかけられたように、強ばっていた身体がゆっくりと解けていく。
「ロイ、ロイ」
何度も耳許で繰り返される声は、ただの学生だったあの頃と何一つ変わっていなくて。
「…ヒューズ」
小さく呼び返すと、嬉しそうに笑ったヒューズの腕に、いっそう強く抱き締められた。

「知り合いかね? ヒューズ大尉」
背後から司令官の多少呆れを滲ませたような声が響くことがなければ、私達はまるで莫迦のようにそのままずっと抱き合っていたに違いなかった。



「相変わらずとんでもない奴だな、お前は」
与えられた小さな個人用のテントは、国家錬金術師の特権だった。他の誰もが近寄ろうともしないその場所へ当たり前のようについてきたヒューズが、護衛役の兵士を体よく追い払うのを見て溜息をつく。
「それ、お前が言うか、ロイ?」
「私は常識は知っている」
「いや、お前くらい非常識なヤツもそうはいねえって」
笑いながら、アルミのカップを取り出したヒューズが小さなテーブルの上にそれを並べる。
「お。紅茶の質が全然違うぞ。普段俺達が飲んでるような色付き水とは雲泥の差じゃねえか」
銀色のポットから注がれる紅茶の香りが、小さなテントのなかに漂う。
「だが、さすがにコレは持ってねえだろ?」
ニヤりと笑ったヒューズがポケットから取り出した小さなブランデーの小瓶に、呆気に取られる。
「ヒューズ? 何故お前がそんなものを持っているんだ?」
「貰った」
小瓶の蓋を取って、クンと鼻をつけて嬉しそうに笑う奴。
「誰に!」
「んー? お前さっき会ってただろ」
さっき会っていた、というのは、それはつまり…司令官?
「なぜ!」
「賭けに勝った」
「おい、ヒューズ!」
「心配すんな。適度に負けてやってる」
「お前な…」
この友人がどうやら此処の司令官とは、結構うまくやっているらしいことは、僅かな時間のうちに、なんとなく察しがついていた。
誰もが注目する目前で、嫌われものの焔の錬金術師に抱き着くなどという暴挙に出た友人は、不思議そうに声をかけてきた司令官にも、まったく悪びれることなく私を親友として紹介した。作戦会議の間中、殺人人形を見る目で私を見つめていた司令官が、それがただの若造なのだとやっと気付いたかのように浮かべた苦笑。
久し振りの再会なのだろう、次の作戦まで、暫く二人で旧交をあたためたまえ。
司令官がそんな言葉をかけて来る頃には、これまで向けられていた他方からの悪意の視線も、何時の間にか、すっかり消え失せて、ただ何か面白いものを見つめるだけの他愛のないものに変わっていた。
いくぞ、ロイ、と昔のように声を掛けてから、私の手を引っ張るヒューズと、文句を言いつつ引き摺られていく焔の錬金術師の姿は彼等の目に一体どう映ったのか。少なくとも、私の威厳など、一瞬のうちに吹き飛んでしまったことは確かだろう。

「旨いか?」
ブランディを数滴垂らした紅茶をゆっくりと喉に流し込む。溢れるような甘い香りに思わず目を瞑る。
「ああ、旨いな。こんなに旨い紅茶を飲んだのは久し振りだ」
「ロイ? お前なら、もっといい紅茶も飲んでるだろ?」
ヒューズの不思議そうな視線に少し首を竦めて。
「くだらない連中と一緒だとどんなに高級なものも旨いと感じることはないからな」
「ああ。つまりロイくんは、俺と一緒だと色付き水も高級ワイン並に旨く感じるというワケか」
「なんだ、それは」
「お前が俺のことを好きだってことだろ?」
「お前なぁ」
大仰に溜息をついてやれば、カップを持ったままヒューズが笑う。ずっと変わらないヒューズの笑顔。
何故、変わらないのだろう。
紅茶を啜りながら考える。私の噂を知らない筈はなかった。顔色一つ変えずに大量虐殺を行う人間兵器。ひとたび作戦に入れば、すべてを焼き付くす焔が、敵のみならず、ときに味方にも向かったことを知らぬものなど此の地にはいない。
今回の作戦で、此処にヒューズの隊がいると知ったとき、とうとうきたかと心を揺らした。会わずに済めば良い、と心から願った。お互い気付かぬ振りをして、黙って擦れ違えばそれでいい、確かにそう思って此処に来たというのに。

「どうかしたのか、ロイ」
「いや。何故お前が此処にいるのかと思って…」
「は? なんだ、それ。いちゃ悪いかよ。此処は俺の隊で…」
「そうじゃない。お前、私のことが怖くないのか?」
「はあ? なんだ、そりゃ」
そしてどうしようもない、という表情で。
「どうしたらお前なんかを怖がれるんだ? 朝が滅法弱くていつまでも枕抱えて離れなくて、珈琲は砂糖とミルク、オマケにビスケットでもつけてやんねえと機嫌悪ィ、放っておけば真っ暗な部屋でいつまでも本に夢中になって飯は食いっぱぐれる、そのクセ腹が減ったら機嫌悪くて人にあたりまくる、そのうえ…」
「もういい、ヒューズ!」
慌てて遮れば、伸びてきた掌に頭をぽんぽんと叩かれて。
「そのうえ、こんなガキみてえな顔した奴だぞ。どうしようもなく可愛いとは思っても、間違っても怖いなんざ思わねえよ」
「かわ…」
「ロイ」
絶句する私の前に、不意に屈んだヒューズの翠の眼。
「会いたかった」
「ヒューズ」
「心配してたんだぞ。お前、何の連絡もよこさねえし」
「連絡なんて…」
「しようと思えばできるだろが。まあ、お前の噂はいくらでも入ってくるからな。無事だということだけはわかってたけどよ」
私だって、お前の無事だけは、いつでも確認していた、と心の中で呟く。毎日、トップシークレットとして入ってくる戦死者の情報を、素知らぬ振りをしながらも、誰よりも熱心にきいていたのはこの私だ。
「今回の作戦でお前が来るってきいて、俺がどんなに嬉しかったか判るか、ロイ。やっとお前の姿が見られる、お前の声がきける、お前と喋れる、そう思うと…」
そして、突然くしゃりと表情を崩して。
「会いたかった、ロイ。お前に会いたかったんだ」
「ヒューズ」
「なあ、お前は? お前は、俺に会いたいと思ってくれていたか?」
そんなことを訊く程、バカな奴だとは思っていなかったというのに。
「なあ、ロイ」
いつもはどこまでも自信に溢れた声が、微かに震えるのがなんだか可笑しくて。くつくつと笑えば、訝し気な表情で顔を覗き込まれる。

深い翠が視界に広がった。
すべてを焼き付くそうとしているこの地に、唯一決して失われることのない美しい翠が。

この翠は、いつでも此処にある。
不意に気付いた真実に、ずっと拘っていた何かが綺麗に払拭されたような気がした。


「ロイ?」
「髭」
「あ?」
「髭面の男にキスする趣味はなかったんだが」
「剃るか?」
「大馬鹿だな、お前は」
「可愛いと言え」
「…ほんとに馬鹿だ」
「るせぇ」

「えーと、ロイくん。目、瞑らない?」
「いやだ」
「ま、いいけどな」


綺麗な翠をみつめながら重ねた唇は、僅かにかさついて、けれどひどく温かかった。







例えすべてを失ったとしても、此の翠だけはきっといつでも此処に。





fin.