| 壁 / くろいぬ |
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【ハボロイ】 『思慕』 壁越しに聞こえる物音。 寝室の暗がりを早朝のしらじらとした光が追い払う。 人ひとり分の隙間の空いたベッドには、自分の体温しかみつからない。 「ああ、今日はあいつ早番か」 ゆっくりと起き上がる肩からシーツが滑り落ちた。 「寒いな」 昨晩脱ぎ捨てた衣服を纏い、ハボックの残り香漂う部屋を出た。 「オハヨーございます」 「おはよう」 ドアの音に、すっかり身支度を終えたハボックが、コーヒーのドリッパーに湯を落としながら首だけこちらに振り向かせた。 「起こしちまいました?」 「いや、自分の部屋に戻るから丁度いい」 「コーヒー飲みます?」 「ああ」 「昨日のコールドチキンでサンドイッチ作ろうと思ってたんですけど」 「貰おう」 「大佐」 「なんだ」 コーヒーを落とし終わったハボックが、腰に手を当て困ったように見下ろす。 「寒くないすか?」 薄いシャツ、裸足の足を眺めて溜息を。 「寒いな」 「床冷たいでしょう」 「ああ」 脇に両手を差し込まれ、躯を持ち上げられた。 「そこで暫く待っててください」 キッチンのカウンタに下ろされて、浅く腰掛ける形になる。 足をぶらつかせ、カウンタ上に目を彷徨わせた。 ハボックの淹れたばかりのコーヒー。 カッティングボードの上のチキンとチーズ。 光るナイフ。 紅く小さなりんご。 りんごのひとつを手に取り歯を当てた。 「なんだ、ここで食べちゃうんですか? テーブルまで移動しようと思ってたのに」 「酸っぱい」 「目が覚めていいでショ、あんたまだ寝惚けてそうだ」 チキンを挟んだ薄切りパンが、カッティングボードに乗ったままこちらに差し出される。 パンを黙って受け取ると、りんごを奪われ替わりにコーヒーの入ったマグカップを持たされた。 「いい香りだ」 吸い込んだ湯気の温かさに思わず目を瞑る。 「裸足でなんかいるから寒いんですよ。ぺたぺた足音聞いた時には吃驚した」 素知らぬ振りでカップに唇を触れさせる。 「ああ、やっぱり冷たい」 同様にカップを手にした男が、カウンタからぶら下がる足先の、青白い親指を摘み上げる。 品定めするように親指を眺め、くるむように足先を掌の上に乗せる。 「引っ張るな。コーヒーが零れる」 「こんなに冷たくさせてるからですよ」 足先から体温が染み込み、目蓋を閉ざした。 銃を扱い慣れた分厚い掌、自分よりも高めの体温、無骨な癖に優しい指。 不意に親指に冷たさを感じた。 すくうように持ち上げられた爪先に、ハボックの唇。 唇を付けたまま、青い瞳が上目遣いで見上げて来る。 「おまえが勝手にいなくなるのが悪い」 青い瞳が丸くなった。 「……痛っ!?」 急に親指を囓られて、跳ね上がりそうになったというのにこの馬鹿者は。 「あんまり可愛らしいことを言うから食いたくなった!」 目覚めてひとりベッドに取り残されて、 不安になって淋しくて、 壁越しの物音聞いてほっとして、 真夜中起きた子どものように、裸足で彷徨い出て歩く。 「俺探しに来てくれたんスか?」 目を輝かせたハボックに、飲みかけのコーヒーを奪われ引き寄せられる。 「起こしちゃ可哀相だと思ったんですよ。ね、大佐、俺いなくて驚いた? 暗くて怖かった?」 「朝日が昇ってるんだ、暗いものか。どうせおまえの立てる物音が騒々しくて寝てられないんだから、ひと声かけてけ。ホンモノの子ども扱いはよせ」 「寝惚けてた癖に」 「きついぞ」 身じろいでも抱き締める腕は益々強くなり、肩口にかかる熱い吐息と頬に触れる強い金髪にくすぐったさを感じる。 締め付けられて、呼吸出来ない。 胸が苦しいのはその所為だ。 私を抱き寄せ満足そうに溜息をつく、この男の所為だ。 「シーツが広いと淋しいですか?」 「姿が見えなくてもどこにいるのかすぐ判るように、足音大きくしましょうかね。俺の首に鈴でも付けてくれます?」 「それとも小指に赤い糸でも結わえておきましょうか」 上機嫌に喋り続ける男の吐息が熱くて。 この熱を、体温を、探していた。 「ハボック」 「大佐、どうしました?」 名を囁いて首に腕を回せば、少し驚いたような声をあげる。 おまえが勝手にいなくなるのが悪い。 「やばい、遅刻ぎりぎりだ。では行って参ります! 遅番の大佐殿、また後ほど!」 戯けた口調で敬礼し、にやりと笑う。 「そうやってりんごやサンドイッチやコーヒーと並んでると、あんた本当に美味そうに見えますよ」 「毒入りかもしれんぞ」 「あんた喰らって毒に当たるなら本望」 「馬鹿なことを」 短い笑い声を上げドアを出て行く。 静かな部屋。 冷めたコーヒーの苦い香り。 囓りかけのりんごの甘酸っぱさ。 染みつきそうな紫煙の香り。 ハボックの残り香だらけの部屋でひとり、急に肌寒さを感じ我が身を抱いた。 fin. |