| 秘密 / くろいぬ |
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【ヒューロイ】【16話】 『独占欲』 奥方は、彼にとって私が特別な存在であることを知っていた。 肉体関係まであることは、知っていたのか知らぬ振りをすることにしたのかは判らない。 「士官学校での話をよく聞かされるわ」 いつか彼女はそう言って、笑いながら私達にお茶を淹れた。 休日の午後、彼の家の陽当たりのよい居間で香りの高い湯気を吸い込みながら、彼も私も、彼女の声が楽しそうであることに満ち足りた想いを感じていた。 「士官学校でも、東部の戦線でもずっと一緒だったって。東部の頃のお話はあまりしては貰えないけれど、でもあなたに支えてくれる人がいてくれたことが嬉しいわ」 彼女はそう言って日差しの中で彼に接吻けた。 「戦場の話なんて、ひとつも楽しいことなんかないからな」 「士官学校時代のこいつの武勇伝なら、幾らでもお話しよう」 戦場の話を聞かせなかったのは隠したかったからという訳じゃなく、単に、楽しくも何ともない死と血と砂と悲鳴と苦痛がごろごろと転がっていた頃の話など、彼女は喜ばないだろうと思ったからだ。 彼女に話して聞かせたことと話さなかったことの差は、彼女がそれを聞いて楽しむだろうか楽しまないだろうかということだけだ。 だから士官学校時代のことでも、話したことも話さなかったこともある。 「割り込めないって感じがして、ほんのちょっとだけ妬けるわ」 冗談交じりに彼女が笑っていてくれれば、私達はそれでよかった。 彼女には幸福に微笑んでいて欲しい。 夫である彼が思うのは当然だが、私も心底それを願っていた。 私達は彼女が幸福であることが何よりも大事なことであると思っていた。 彼女は幸福である権利を持っていた。 例えば世界に私と彼だけが存在していたのなら、エゴを満たし合うばかりの関係でもよかったのだと思う。 互いの心を時間を躯を奪い合うばかりでも、それはそれで私達らしい関係だったろう。 彼の欲望に晒されるのは、焔に炙られるちりちりとした痛みにも似た快感だった。 欲情の色が浮かぶ瞳の、視線に灼かれる瞬間に無上の快楽を感じていた。 彼は目を逸らさない。 私も彼の目を逃さない。 身も心も貪り尽くそうと、欲望の一色に染まり切る彼の瞳を眺めることは、私に何より深い悦びをもたらした。 その瞬間、彼は私だけを求めていた。 妻と私の両方を欲しがり、絶対に手離そうとしない業の深い男を独占する瞬間。 彼の過去も現在も、ずっと自分だけのものだったのではないかと錯覚出来る瞬間を、私は尊く感じていた。 彼女にはこんな、飢えて醜い貪欲は似合わない。 ひたすらに愛情を注がれて、満たされて微笑んでいるのが似つかわしい。 束の間の逢瀬で欲望を満足させる為の、互いを貪る凶暴な牙など持ち合わせない。 幸福に微笑みながら差し延ばす、柔らかに絡みつく腕ほど強いものなどないのだから。 優越感と敗北感と諦めの綯い交ぜになった、エゴイズム。 それでも、彼女が幸福である権利を私達は認め信じていた。 喪服の彼女が涙を堪える嗚咽を聞いた時、我慢しなくてもよいのだと、駆け寄って声をかけようかと思った。 泣いてもよいのだ。 彼女は誰憚るものなく泣き声を上げてよいのだ。 自分を置いて先立つ伴侶を、嘆き、悲しみ、呪い、取り乱し、戻って来てくれと大地に伏して叫んでもよいのだ。 涸れ尽きるまで涙を流してもよいのだ。 彼女にこそその権利があるのだから。 誰より幸福に微笑む権利も、誰より悲しみにかきくれる権利も、彼女が行使してよいものなのだ。 それは、彼女だけのものなのだ。 だから私は、抑えた嗚咽を悲しく聞いた。 彼女は、父親を呼び続ける子供の為に、気丈に涙を堪えようとした。 彼女は妻であり、母であったから。 独占欲の強い彼が、最後の瞬間、彼女を娘と分かち合うとは。 「しょうがねぇな」 諦めて笑う彼の顔が思い浮かぶ。 ならば彼は、今この瞬間の私の心をどう思う? 奪いたくても手の届かない場所に行ってしまった彼を、焦がれ求める心をどう思う? 人前で泣き喚くことも出来ず、ただひと筋の涙を流すことしか許されぬ私を。 おまえのことだけを考えているのは私だ。 今、立ちすくみながらおまえだけを思っているのは私だ。 誰よりもおまえに縛られているのは、私だ。 私だ。 今この瞬間、おまえの独占欲に支配されたままのこの心を おまえはきっとうっとり笑い、喜ぶだろう。 fin. |