愚者 / くろいぬ
【ヒューズ←ロイ】






『夢ひと夜』



 こんな夢を見た。

 水35リットル、炭素20キログラム、アンモニア4リットル、石灰1.5キログラム、リン800グラム、塩分250グラム、硝石100グラム、硫黄80グラム、フッ素7.5グラム、鉄5グラム、硅素3グラム、その他何種かの微量元素。
 それと、茶色く変色した血液のこびり付いた『彼』の命を奪った弾丸。

 様々な物質を広い部屋の真ん中に集めそれらをぐるりと囲む錬成陣を床に描いた。
 エドワード・エルリックの例もあり、錬成を行った後に自分が無事でいられるとは思えなかったので『彼』が困らないように衣服や簡単な食事も準備した。
 デリで買ったサンドイッチと温めたスープ。
 私の服では『彼』の身には合わないが少しの間くらい不便を我慢することぐらいは出来るだろう。
 念の為に大きなバスローブも側に置いた。
 暫く暮らせるだけの現金も置いたし眼鏡は自分で作りに行けばいい。
 少し素っ気ないような気もしたので、せめてもの気持ちで新品のタオルの上に石鹸と剃刀と櫛と鏡を揃えて置いた。
 外に助けを呼びに行くのなら『彼』もこざっぱりした姿で人前に現れたいだろうと思ったから。

 錬成陣の傍らに跪くと小さな弾丸に室内灯が鈍く反射した。
「戻って来い」
 両掌を押し当てた錬成陣にぎっしり書き込んだ構築式の文字が青く発光する。

 気が付くと私は中空に浮く扉の前にひとりぽつんと立っていた。
 扉には、世界を、宇宙を、神を、真理を、全を、一を示す、セフィロトの樹が描かれている。
 辺りを見回しているとどこからか笑い声が響いて来た。
『バカだな、夢に見る程欲しいのか。願うのか。何とも浅ましい、夢のクセに構築式は緻密正確巧緻を極めているとは!』
 心底面白いとでも言うように笑い声が木霊し続ける。
「誰だ!? どこにいる!?」
『ここだ、おまえの目の前だ』
 霧に包まれたようにぼんやりとした影が現れた。
『"誰"だと? おまえはもうオレが何者かを知っているじゃないか』
 そう言われると彼に逢う為に自分がここに来たようにすら思えて来た。
『ここを訪れる者は滅多にいないし、現し身を伴わずにここに来る者は更に少ないがな。こういう場合の"通行料"は、果たしてどんなモノだったっけなあ?』
 影は私の顔をじっと覗き込んだ。
 空気に溶け込みそうな輪郭の曖昧さでそれでも圧迫感を感じさせる笑みを浮かべていた。
 私は迷わず着衣の前を開いた。
 素肌の胸には窓を切ったような洞があり、その真ん中に深紅の心臓がどくんどくんと震えている。
 影がまた笑った。
 つきんと微かな痛みを感じたと思ったら私の胸は空洞になった。
 深紅の心臓を得た影が楽しそうな高笑いを上げたが私はもう何も感じなかった。
『真っ先に心臓を差し出すとは、愚かにも程がある!』

 ふいに失墜感に襲われた。
 奔流の真っ只中であるかのように周囲で何かが流れ動くのが判ったが、正確にそれらを把握することは出来なかった。
 息苦しさと眩暈を堪えていると急に放り出されたように躯が楽になる。
 視界が明瞭になり元いた部屋に立ちすくむ自分に気付いた。
 足下では構築式の発光が続き、積み上げた様々な物質が蠢いている。
 すうっと光が収束し錬成陣の真ん中に柱のように立ち上がった。
 光はやがて人の形を作り、そこに『彼』が現れた。
 『彼』は驚いたように自分の両手を見ていたがすぐに私に気が付いた。
 私の胸の空洞に目を留めて『彼』は悲しそうに眉を寄せ、そっと手招きをする。
 円陣を踏み越え近付くと『彼』は私の上に屈み込むように顔を寄せた。
 眸に映る自分の姿を見ながら上向いたが、眸は目蓋にゆっくり隠され、睫の端の滴と接吻けが同時に私の上に落ちて来た。
 また痛みを感じたと思ったら『彼』の姿は掻き消え、私の胸には元通り深紅の心臓が戻っていた。

 スープはまだ湯気をあげる温かさを保っていた。
 私は『彼』の為に用意した石鹸や剃刀を眺め、何事もなかったかのような静寂な部屋を心臓が悲しんでいるのを感じた。






fin.