銀時計 / 白猫
【ハボロイ】



『銀時計』



カツン。

脱ぎ捨てた上着が、少しずつテーブルから滑っていたのかもしれなかった。軋むベッドの動きに反応したのか、パサリと硬い床の上に落ちた上着がたてた金属質な音が部屋に響いた。


「大佐? ポケットの中に何か入れてたんスか? まさか壊れ物とかじゃないでしょうね」
腹筋をゆっくりと舐めながら降ろしていった舌先を、今まさに、張り詰めるモノに触れようとしていた瞬間を邪魔されて、ちらりとテーブルを見遣る。
「ああ、平気だ。たいしたものじゃない」
「それならいいんスけど。あんた、そういうの、ほんと無頓着だから」
「悪かったな。おい、余所見してないで、真面目にやれ。もうやめるぞ」
「冗談キツイっすよ」
苦笑しながら、ゆっくりと舌を這わせると、撓やかな身体が綺麗な弧を描いた。



すうっと眠りに引き込まれて。やがて規則正しい寝息をたて始めた人を、黙って見つめる。柔らかい黒髪が額に流れて、綺麗な寝顔に僅かな翳りを落とす。
「大佐」
そっと呼び掛けてみると、その人が微かに笑ったような気がして、途端とくんとくんと高鳴る胸。これではまるでティーンエイジャーだと、我ながら呆れ果てる。
「風邪、ひかないで下さいよ」
裸のまま、眠りに落ちた上官に、そっと毛布をかけてから、煙草を探そうと立ち上がったとき、床に落ちている上着に気付いた。
「おっと」
情事の最中に聴いた音を思い出して、慌てて拾い上げる。
「何が入ってんだ?」
たいしたものじゃない。
そう言った人の言葉を信用しないワケではなかったが。如何せん、あのどうしようもなくいい加減な上司の事を考えると、まったく信じきっていい、とも言い切れない。自分の上着から煙草を取り出す感覚で、何気なく手を入れたポケットの中で、指先が触れた無機質なモノ。
「これ…」
取り出したのは、『国家錬金術師』の証である銀時計だった。

(たいしたものじゃない)
ほんとにこのヒトは。
大きく溜息をついて、ベッドに眠るあどけない寝顔を見つめる。これが、一体どんな意味を持つものかなど、余程の田舎者でもない限り、子供でも知っている。もちろん、この人がこんなものに何の価値も見い出してないコトくらいわかってはいるが。
「だからって壊しちまったらさすがに困るでしょうが」
小さく呟いてから、そのまま上着と一緒にテーブルの上に乗せると、今度は自分の上着を取って、煙草を取り出す。咥えた煙草に火をつけて椅子に腰をかけると、またなんとなしに、視線がテーブルの上を彷徨った。





鮮やかな群青の軍服に銀の時計。直属の上司として、初めてその人を知った時から、白い手袋と共に、それは『ロイ・マスタング大佐』の象徴のひとつだった。
国家錬金術師。
陰で、軍の狗、と蔑まれて呼ばれることさえある超エリート。その酷く矛盾した世界のなかで、特別抜きん出た才能を持つ『焔の錬金術師』。
それが、どのようなものかなどということに、当初からたいして興味があった訳ではなかった。超エリートの将来の将軍閣下殿など、自分には何ら関係がある筈もない。いざというときには、自分の身を呈しても守らなければならない直属の上官が、できればそんな堅物でなければよかったなぁ、などと、勝手に作り上げた錬金術師像に舌打ちしていた程度のもの。
それが。
初めて会ったときの、面倒臭そうな億劫そうな、そして何より眠そうな態度と表情を思い出して、煙草を咥えたまま、忍び笑う。
簡単な書類を読み上げる手間さえ省こうとして、傍らの女性士官に嗜められ、というよりは、叱責されて、不機嫌さを隠そうともしなかった童顔の青年。
(コレが?)
今、考えても、さすがに随分失礼だったと思う感想を持ったまま、ぽかんと立ち尽くしていた自分を、不意にその眼が見据えた。
ほんの一瞬の出来事。
直ぐに、まるで嘘のように、元の眠た気な眼に戻ったその人の、その一瞬を見逃さずに、そして捕われた自分に気付いて。

そして、それから数カ月はたっていただろうか、普段のヘタレっぷりに頭を抱えつつも、この人の下に配属された幸運を噛み締めていた頃。
(お前、ロイ・マスタング大佐の下についたんだってな)
(不運だよなあ。なるべく早く転属願い出せよ)
久し振りに会った同期の連中との酒盛りの中で囁かれた言葉。
(アレは人間じゃねえ、ってもっぱらの噂だぜ? ジャン、お前だって知っているだろう? イシュヴァールの話)
イシュヴァール。
焔の錬金術師の名前が囁かれるとき、必ず付き纏うもう一つの名だった。
焔の錬金術師の『力』への評価を不動のものとした、しかしその戦いを知る誰もが、苦い顔で口を濁す禁忌の名。
その悪夢の様な戦いの最中、たった一度指を鳴らしただけで、ひとつの村を塵ひとつ残らぬ焦土になるまで焼き払った冷酷非情な人間兵器ロイ・マスタング。
(いくら国家錬金術師とはいってもなあ。俺だったら、いくら命令だって、そんなコトやらないよ)
(だから人間じゃないんだろう? 人間だったら出来ねーよなあ)
そう言って侮蔑するかのように笑った友人たちを、気付けば、全員叩きのめして。

翌日、呼び出されて向かった大佐の執務室の中で、たった二人向き合っていた。絆創膏とガーゼが顔中を覆う情けない姿を呆れた顔で眺めた上司。
(そんな輩は何処にでもいる。放っておけばよかっただろう)
(貴方を馬鹿にされて黙っている訳にはいきません)
(私の評判は頗る悪いんだがね。そんなことを気にしていたら、司令部中に喧嘩を売って歩く羽目になるぞ)
さも可笑しそうに笑う相手が、言葉を続けて。
(言わせておけ。国家錬金術師のなんたるかが判っていないものに、わざわざ説明してやるまでもない)
(貴方は、それでもいいんですか?)
(それ、とは、噂が広まることかね? それとも国家錬金術師として人殺しも辞さないことかな?)
(マスタング大佐)
揶揄われるのは我慢ならなくて、真剣に見つめた相手から漏れた小さな溜息。
(私には、その噂を否定する権利はないよ、ハボック少尉。イシュヴァールの戦いの最中の自分を人間だと思えなかったのは、私自身だ)
(大佐!)
(だが、そんな私を、いちいち叱り飛ばしては人間に戻してくれた酔狂な奴もいた。荒れ果てた土地で煤に塗れて動けずにいた私をたった一人で捜しにきては力づくで引っ張り連れ帰るような奴がね。
だから私は今此処にいる。私にとって重要なのはそれだけだ。
私は、これからも国家錬金術師であり続ける。それ故に、戦場に狩り出されることがあれば、いつでも喜んで出向くよ。他人のことなど気にしている暇はないからね。それだけだ。少尉、なにか質問は?)
(…その人の名前を聞かせて頂いても宜しいですか?)
(そのうち判るよ。なにしろ、私には他に友人はいない)
えらそうに宣言した大佐に完敗した思いで、黙って退室しようと扉に手をかけたとき、突然かけられた声。

(ハボック少尉)
(これは、私の中で、最重要機密に価するものなのでね、件の友人も含めて、まだ誰にも話したことはないんだが)
そして、きれいな微笑み。
(イシュヴァールの焔は、とても綺麗だったよ)



「ん…」
不意に背後で聴こえた微かな声に、我に返って、慌ててベッドを見つめると、そこにはあどけない表情で眠るひとりの国家錬金術師。
その指先が何かを求めるかのように彷徨うのを見て、そっと囁く。
「いま、行きますよ」
吸い殻を灰皿に押し付けてから、冷たく光る銀時計をきちんとポケットに戻して。


この銀時計が在る限り。この人はまた戦場へも赴いて、そして命懸けで戦うだろう。それが国家錬金術師というものならば。
「今度は俺が傍にいますから」
この人が例え何度人間であることを忘れても。今度は自分が此処に連れて帰ると誓って。



あのとき、イシュヴァールの焔を綺麗だと言ったこの人に返した言葉。

貴方の焔を、俺にも見せて下さい。



あのときの貴方の笑顔を、一生忘れない。





fin.