何処までも / くろいぬ
【ハボ・ロイ】





『 YOU - SORO ! 』



「ハボック少尉、君はもう少し喧嘩上手な性質ではなかったのか?」
「そのつもりだったんスけど、ここんとこお利口さんにしてたもんで、腕が鈍っちまったよーですね」
 椅子に座って初老の軍医に腕を差し出したハボックが、ロイから目を逸らして天井を見上げた。
 ハボックの利き腕には、割れた硝子で裂いた傷がぱくりと口を開けている。
「窓に体当たりしちまって、それで硝子が落ちて来たんすよ」
 軍医の操る銀色の針が、ハボックの皮膚を小さくすくって縫い合わせて行く。

 ロイ・マスタング大佐の中央復帰を快く思わぬ者は多い。
 東部からロイに従ってやって来た者は『マスタング派』と目され、それ以外の派閥からは無形有形の嫌がらせをコマメに受けることになった。
 真っ先にホークアイが性的な冗談の的になった。
 彼女は質の悪い嫌がらせを受けたが、卑怯者はその場で彼女自身から手ひどい報復を返され、中央勤務の女性士官達の熱心な訴えにより嫌がらせを仕掛けた者が厳しく処分されたことから、表立ってのいざこざはなりを潜めた。
 その分水面下では、聞くに堪えぬ噂話に花が咲くことになったのだが。
 その日ハボックは食堂で、マスタングは男に脚を開いて中央に復帰したらしいという、下卑た噂を元にした嫌味を聞かされた。
 捏造された噂にはうんざりしていた『マスタング派』の面々は、そのくだらなさに肩を竦めて聞き過ごした筈だった。
 ハボックも右に倣えで、気にする素振りすら周囲には見せなかった。
 だが、鬱憤は確実に蓄積していたらしい。
 食堂を出た狭い通路で、ハボックの前にさりげなく脚を出す者が現れた。
 そんなものに引っ掛かって無様な転倒をするつもりもさらさらなかったが、のばされた脚を見た瞬間、ハボックの脳裏から無視を通す気が蒸発して消えた。
 差し出された脚を軽く飛び越え通り過ぎ、後ろ足で悪戯者の軸足の膝裏を引っ掛ける。
 驚愕の声を上げながらひっくり返った相手など、振り向いてやる価値もない。
「この野郎!」
 掴みかかろうと伸びて来る腕をかわし、嘲笑ってやればよいのだ。
 思いながらハボックは、自分の肩をぐいと引く男に向かい合い、顎に拳を叩き付けた。
 危うく軍施設内で白昼堂々広げられるところだった乱闘は、怒り狂って飛びかかった男とハボックが通路の窓にぶつかったことで、開始と同時の終焉を迎えた。
 成人男子二人分の体重を受けた窓枠が壊れ、大きな硝子片が男目指して落下する。
 身を屈めようとする男の後ろ首が軍服の襟から露出しているのを目にした瞬間、ハボックは咄嗟に腕で庇った。

「なんつーかですね。ホラ、俺利き腕怪我しちまったじゃないですか。先にちょっかいかけた奴の所為でこうなったんだって、証人も結構いたんスよね。それもあって、始末書もソイツひとりが引き受けることになりまして」
 呆れ顔のロイの目前でハボックは手持ち不沙汰に煙草を咥え、即座に軍医から医務室は禁煙だと注意される。
「……こういうのも人徳って言うのかなー、なんて」
「おまえ、馬鹿だろう」
「スミマセン」
 ロイの口調から微かな怒りを感じ取ったハボックは、素直に謝罪の言葉を口にした。

 頭を垂れ、ハボックはロイの硬質な声を聞き続けた。
「私の噂が芳しくないのは昔からだ。今更いちいち相手にするな。挑発に乗るなら乗るで、自分は無傷で相手だけを叩きのめせ。おまえなら始末書も減俸も慣れっこだろう、ハボック少尉」
「減俸は勘弁してくださいよ」
 ハボックが情け無い気分で顔を上げると、目線を合わせたロイは溜息をついた。
「では逃げ足を早くする訓練を積むんだな」
「はあ」

 天使が通り過ぎ、その間医務室で動くものは軍医の器用な指と銀色の針だけになった。
 皮膚を縫い合わせた黒い縫合糸が、パチンと音を立てて切られる。
 ハボックは火の着けられない煙草を咥え先端を上下に動かした。
「覚悟はしていたにせよ、多少のストレスはやむを得ないかもしれんな。錬金術師の殺害が立て続けに起きたからこその中央招聘だ、めでたいとは私自身も口が裂けたって言えない。ホークアイ中尉のこともあるし、私も少しは大人しい素振りでも見せることにするよ。彼女のような有能な部下の手を、煩わしさに無駄にすることもないからな」
 穏やかなロイの声に、ハボックは目を上げた。
「頭の固い老将軍だの、牽制してくる奴らだの、猫でも被って頭を下げるフリでもしてやり過ごすことにするか」
 ぽん、と肩に軽く置かれた掌を、ハボックは掴んだ。

「冗談じゃねェ!」

 血相を変えて立ち上がるハボックの腕から、まだ切り終えてない縫合糸がぷらりと垂れ下がった。
「おい君、もうすぐ処置も終わるから……」
「俺らはそれこそ、自分の上司が向かうところ敵だらけの憎まれっ子だってことはこれ以上ないってくらいに思い知ってんですよ! それが何スか!? 俺らを理由に猫被りだァ!? ンなこたあせんでくださいよ!」
 小さな処置室にハボックの怒鳴り声が響いた。
「頭下げるフリだって!? そんな高等技術持ってんだったら東部に左遷される前から使えばいいじゃないっスか、俺ら巻き込んでからじゃ出したって遅過ぎっしょ!? どうやったって出っ張ってる杭なんだから、叩かれるのは判り切ったことじゃないすか! そんならせめて、いつだって頭をシャンと上げてて欲しいっスね!!」
 呆気に取られるロイの前で、ハボックは息を切らしていた。
「だから! だから……! 俺らの為なんかに、下げたくもない頭下げないでくださいよ」
 ハボックの声が急速に小さくなる。
「挑発に乗るような馬鹿な部下で申し訳ないんですが、それでもあんたには傲慢なくらいでいて欲しいんですよ。多分ホークアイ中尉もそう思ってます」
「ハボック」
 ロイは何かを言いかけ、俯きかけのハボックの顔に目を遣り、目を瞠った。
「おい、ハボック」
「あれ?」
 金色の前髪の隙間から、額にひと筋の血液が流れている。
「あれ!?」
「君、他にも怪我してたの? いいからさっさと座りなさい。軍医に逆らうと後々困るよ?」
 ハボックの向かいに座っていた軍医が、ハボックの腕から垂れる糸を引く真似をした。

 ハボックは頭から硝子の破片を被っていたようで、調べてみれば腕の他にも小さな傷がふたつばかり、髪の隙間から見つかった。
 怪我を受けた瞬間には気付かずに、激昂したことで傷口が開いて血が流れたらしい。
「っかしーな、痛くなかったんだけど。あ、今は痛いです。いたたたた」
「図体デカイんだから消毒如きで騒ぐんじゃないよ、君」
 手荒く脱脂綿を押し付けて消毒する軍医の手許を覗き込みながら、ロイは笑った。
「ハボック、余程血の気が余っているようだな」
「弁明のしようがないですね」
 頭部の怪我の処置の為に自分の靴先を眺め、意気消沈の姿勢のハボックに、ロイは楽しそうに続ける。
「いや、頼もしいと思ってるよ」
 声の主の方を振り仰ごうとしたハボックの頭を、軍医が無理矢理に抑え付けた。
「……そうだな。一緒に打たれてくれる連中がいるのなら、出る杭としては精一杯背伸びでもしていようか。売られた喧嘩は買いたまえ、少尉。その代わり何が何でも勝つように」
「はい!」
 漸く自由になった頭を勢い良く上げ、ハボックは目の前に佇む人の姿を見た。

「血の気の多さで言えば、君も大差はなかろう、マスタング君。いや、今はマスタング大佐殿か」
 両手を消毒液に漬けていた軍医が、ロイを眺めて言った。
「大佐殿は覚えておられないでしょうが、私は以前は校医を務めておりました。士官学校の校医なんてものは血の気の多い連中には慣れっこですが、その中でも大佐殿は保健室にかつぎ込まれる常連として印象深く覚えていますよ。切り傷擦り傷喧嘩傷ナイフ傷打撲骨折火傷、君のカルテは華やかだった」
 軍医はロイににやりと笑い顔を向けた。
「覚えてますよ、あの頃の事は全部。そうだ、あなたには随分と世話になったものだ。多分私の部下達が、これからもあなたのところに厄介をおかけすることになるでしょう。その節は宜しくお願いしたい」
 ロイも軍医に笑みを向ける。
「やれやれ、血の気の多さは昔と変わらんか」


 ロイとハボックの退出した医務室で、軍医は処置台を滅菌しながら思い返していた。
 黒髪の大佐がまだ士官候補生だった頃、隣にいつも立っていた生徒は、先日職に殉じたと聞いた。
 十年以上も昔、毎日のように喧嘩で傷をこさえては、もっと丁寧に消毒しろだの、傷痕が残らぬように縫合せよだのと五月蠅かった連中だ。
 いつまで経っても変わりはしない。
 制服が替わっても、胸にぶら下げる勲章の数が増えても、変わりはしない。
 隣に立つ顔ぶれは交替しても、顔をまっすぐ上げるあの姿には変わりはない。
「やれやれ」
 これからも忙しい日が続きそうだと。
 軍医は肩を竦めて溜息をつき、処置台を拭き上げる手に力を籠めた。



 いつまでもどこまでも変わらぬ、まっすぐに前を見る瞳よ。
 いつまでも、いつまでも。






fin.