電話線 / くろいぬ
【ヒューロイ】


電話線

 黒くて硬質なビニール皮膜の中の銅線が、男の声を伝えて来る。音の震えを電気信号に変え、遥か遠いセントラルから、ここ、東部まで。

「よう」
「ヒューズ、何の用だ」
 昔から変わらぬ、飄々とした風な明るさの声。
「うちの娘が運動会で三等取った、祝いの電話だ!」
「……ほー」
「めでたかろう!」
「次は100メートル10秒切るまで電話するな!」
「ああ、陸上競技でカモシカの姿態に育つのもいいかもな!」
「切る」
「シクロ将軍の拉致事件の件で」
 電話を切ると脅さなければ本題を話さぬ癖を、こいつはいつ頃から付けたのだろう。付き合わされる方の身になれ。
「情報漏洩者の尋問で、近い内に東部に行くことになった」
「そうか」
「それだけ」
「それだけか」
「ああ」
「じゃあな」
「待てよ」
 まただ。
 中々本心を明かさぬ悪癖を、こいつは何時から。
「最近逢ってないから、声聞きたかっただけ」
「そうか」
 司令室のざわめきが急に消失したような気がした。何百キロもの距離を繋ぐ、電話線越しの男の声だけが世界の全てになる。
「逢いに行くよ」
「仕事のついでの癖に、恩着せがましいな」
「逢いに行く」
「その内天罰が下るぞ」
「お前さんも一緒だろ?」
「 ―――― ああ」

 満足げな笑い声を聞いた瞬間、またざわめきが戻ってきた。リノリウムの床に響く足音、話し声、制服の分厚いサージが椅子に擦れ、また、裾翻る音。
 現実味の中で感じた後ろめたさに摩擦される、高まる熱の名を私は知っている。
 倫理と真反対の方向へ駆け出す、この心の名を知っている。

「ちなみに私は仕事中だが」
「奇遇だな、大佐。俺も仕事中だ」
「セントラルはそんなに暇なのか。職務サボって無駄な長電話をするな」
「定時後かけたって、お前さん司令室にいねえだろ。速攻、デートか図書館か本屋か。帰宅時間も判りゃしねえ」
「急いで帰宅した所で、誰が待つ訳でもないからな」
「じゃ、定業中に電話するっきゃねーだろ? お前掴まえたかったら」
 遙か遠い、幻のような声が胸の奥底に引っ掻き傷を作る。
「ロイ、お前に伝えたかったら」

『 ―――― 逢いに行く』



 通話の切れた受話器を耳に当てたまま、暫く立ち尽くしていた。
 音の振動を電気信号に変え、また振動に組み直されて再生された声に。こんなにも心が揺れることを不思議に思いながら。倫理に反する想いが、僅かなひとことに掻き立てられることを不思議に思いながら。
 声ひとつに、こんなにも。
 遥か遠くから届く声が、想いそのものの強さではないかと思い込んでしまいそうな、浮ついた心を笑いながら。


fin.