crack-罅- / くろいぬ
【ハボロイ】



『 cozy 』

「飲み過ぎっスか?」
「判っているなら放っておいてくれないか。頭がひび割れそうに痛いんだ」
「この書類にサインして貰ったらさっさと行きますよ」
 屋上へ続く階段の踊り場。
 司令室から抜け出し、軍服のコートを被って居眠っていたハボックの上司は、上体を起こして眩しげに目を眇めた。
 大きく切られた窓を背後に屈むハボックの肩口から洩れた日差しが、ロイ・マスタング大佐の目を射る。
「こことここと、あとここにサインお願いします」
「ああ」
 書類と共に差し出されたペンをロイは受け取った。
 『傷の男』捜索現場の解体した瓦礫の処分先について、捜索人員増員の申請、現場での昼食代の決裁書類……。
 細かな請求書類に目を通し、ロイは顔を顰めた。
 何気に捜索現場界隈で一番味のよいと知れた店の領収書が添付され、昼食の他にワイン代まで含まれている。
「あー、捜索員一同、一刻も早い事件解決を目指し、誠心誠意で作業に当たっております」
「期待を裏切るなよ?」
「勿論であります!」
 敬礼するハボックを胡散臭そうに眺めてから、ロイは床に座り込んだまま書類にサインをした。
 伝票にサインさえ頂ければもう用はないと、ハボックは素早く書類を取り返し再びお座なりな敬礼をして踵を返そうとし、足を止めた。
 敬礼の先でロイはこめかみを指で押さえ、欠伸を堪えている。
「心配しなくてもそろそろ司令部に戻る」
 ハボックの視線に気付いたロイが、立ち上がるそぶりも見せぬまま言った。
「何だってそんなに飲み過ぎちゃったんです? デートの相手に呆れられたでしょう?」
「私は同席の女性を放って深酒するようなことはしないよ」
 心外だとばかりにロイはハボックを睨み付けた。
「ひとりで深酒の方が侘びしいでしょうが?」
「決めつけることもなかろう。ただちょっと、要は、悪酔いをしただけだ」
「はあ」
 珍しく歯切れの悪い上司の言葉に、ハボックは小首を傾げた。
「たまたま以前立ち寄ったことのある店に行って、数杯飲んだだけだ。その後家に帰ってから、どういう訳だか飲み続けになってしまっただけであって、でも別にひとり侘びしく飲んだ訳じゃなくて……」


 数年前に立ち寄ったきりだったバーは、カウンタもバーテンも変わらぬままで。
『今日はおひとりで?』
 まさかバーテンに顔を覚えられてるなんて、思いも寄らなかった。
 その時どんな話をして、どんな風に笑い合ったのかまで、急に鮮やかに記憶に甦って。
 静かに酒を飲み、自宅に戻ってからも暫く寝付けず、グラスをふたつ取り出して杯を重ねた。
『ひとりで先に逝くなんて、聞いてなかったぞ』
 普段あれ程饒舌だった旧友が、黙って消えて行ったことを静かに思い出しながら。


「……まあ、思ったよりも飲み過ぎてしまったことは確かだな」
 こめかみを押さえる手を後頭部に回し、ロイは自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
「独り言呟いてるくらいなら、呼び出してくださいよ。奢りならいつでも飛んで行きますから」
「部下に同情されるほど落ちぶれてるつもりはないんだがね」
「同情なんかされるタマじゃないでしょうが」
 やる気のなさそうな顔で、窓からの日差しを浴びるロイをハボックは眺めた。

 役者不足は承知の上だけれども、想い出話を黙って聞くくらいのことは出来るから。
 ほんの少し甘えてくれてもいいじゃないですか。
 そんなことを言っても、笑われるだけだろうけれど。

「手間のかかる上司のお守り役は慣れてますから」
 漸く言ったハボックの視線の先で、ロイは肩を竦め、ゆっくりと背筋を伸ばした。
 ハボックの背後の太陽を見上げ、眩しさに目を瞑りながら、ぐいと両腕を頭上に伸ばし立ち上がる。
「アイタタタ」
 躯を起こした途端、ロイは頭を押さえた。
「飲み過ぎないで済むように、飯も美味い店案内しますよ」
 腕を掴んでロイの躯を引き上げようと、太陽を背にして腕を差し延べるハボックの顔をロイは見つめた。
「 ―――― 酒と肴が美味くて器量と気だてのよい女主人のいる店だろうな」
「肝心の女主人が売約済みの店なら心当たりありますけど」
「だろうな。まあ、やむを得んか」
 差し出された腕を勢い良く引っ張り、そのままロイは階段を下り始めた。
 足音を高く上げ、風を切るように上着を翻し袖を通す。
「休憩はお終いだ。ハボック、何やってる? サボってないでおまえも早く職務に戻れ」
「サボってたのはあんただけでしょうが」
「何か言ったか?」
「ノー、サー!」
 返事をした頃には、ロイはぐるぐる巡る階段をあっという間に数階分駆け下りている。
「ハボーック?」
「はいはい」
 書類を抱え直したハボックは、慌てて上司の後を追おうとした。
「もたもたしてておまえが残業になっても、私は付き合わないぞ! 器量よしの女主人のいる店にはひとりで行くからな!」
「あっ、ひでえ! 店の場所も知らないクセに!」



 屋上へ続く階段の踊り場。
 日差しの温もりと、去って行くふたり分の足音と声の響きだけ。




fin.