| ありがとう / くろいぬ |
|
【ハボック+ロイ】 『AMAZING GRACE』 「来てくださってありがとう」 ロイ・マスタング大佐とジャン・ハボック少尉の前で、ヒューズ未亡人は笑みを浮かべた。 それは、ヒューズ准将が持ち歩いていた家族写真の、幸福のただ中に浮かべた笑みとは少し違った静けさを感じさせるものだった。 穏やかな毅さ。 愛する者を喪失した悲しみを乗り越え、夫婦ふたりで慈しんで来た愛し子をこれからはひとりで護るのだと決心した毅さと誇りと喜び。 ロイとハボックのふたりは、未亡人がスカートの裾にまとわり付くように寄り添う愛娘に向けた瞳からそれを感じ取った。 セントラル異動直後の、市街地への初巡回の最中のことだった。 ロイはヒューズ准将邸を訪れた。 未亡人に、時間が取れずに外回りの最中立ち寄るだけで申し訳ないと、ロイは最初に謝り。 「どんなに小さなことでも、私に力になれることがあるならいつでも言って欲しい」 軍の車輌と部下を背後に待たせ慌ただしさも隠せぬままに、ドアの外に立ったまま未亡人に伝えた。 ヒューズ未亡人はロイの顔を見た瞬間に、驚きと懐かしさと小さな痛みとをないまぜにしたような、複雑な表情を浮かべたが、助力を申し出たロイの声はそれより更に痛みを滲ませていた。 「主人との友情を覚えていてくれてありがとう。感謝してるわ」 でも大丈夫なのだと、未亡人は傍らの娘の柔らかな髪を撫でながら言い、微笑んだ。 「自力でどうにもならないことが出て来たら、遠慮無く頼らせて頂くわ。でも今は大丈夫。私にはこの子がいるから。あなたはあなたのことだけを考えていてちょうだい」 風に揺れるスカートの裾を握り締めた童女と目を遭わせ、力強く笑みを浮かべる。 「来てくださってありがとう」 「母は強し、だな」 「全く」 ヒューズ准将邸を辞したふたりが乗り込んだ軍用車は、巡回に戻る為にすぐにエンジンを回した。 忙しなく振動に揺られながらハボックは市街地図を開き、次に向かう軍施設を指で示した。 頭を職務向けに切り換える為にロイは地図を熱心に覗き込み、そして車窓の外に顔を向け溜息をついた。 「彼女の強さに打ちのめされた気分だ」 薄く自嘲する。 「彼女の大地に根を張る揺るぎなさが嬉しい。ヒューズが誇らしげに笑う顔が目に浮かぶ」 くつくつと笑い出すロイにハボックは肩を竦めて見せた。 「何か小さなことでも彼女と彼女の娘にしてやることがあれば、きっと私は救われたように思えたのだろう。自己満足だと判っていても、ヒューズがそれを望んでくれているのではないかと、奴に返せるものがあるのではないかと」 「今何をすることが出来なくても、こうやって立ち寄ることで、准将もヒューズ未亡人も喜んでらっしゃるんじゃないスかね」 「ハボック、柄でもない。下手な慰めなぞしなくていい」 ロイは車輌の天井を見上げ、また笑う。 「降参降参、見事なものだ。地に足の着かぬ私如きが、手助けなどしてよい相手じゃない。私には私のすることがあるのだと、逆に叱咤激励された気分だ」 「女を『弱き者』なんて言ったの、誰でしょね」 そう口に出した瞬間、ハボックは凛とした容貌の女性上官の顔を思い浮かべた。 「弱いだなんて、何か誤解があったんだろうなあ……」 「そうだろうなあ」 副官である同じ人物を思い出したのであろう、ロイもしみじみと呟きを洩らす。 暫くの間沈黙が続き、車内には低いエンジン音のみが響いた。 「そういえば何時だったか、ハクロのおっさんとご家族が乗った汽車が『青の団』に乗っ取られた時に……」 「少尉、中央では将軍閣下をおっさん呼ばわりは、流石に控えたまえ」 「スンマセンね、以後気を付けます。で、閣下のご家族なんスけど」 東方司令部とイーストシティの憲兵の一団が出迎える駅に到着した時には、汽車の中で既に事件はほぼ解決していた。 『青の団』をまとめるバルドが、捕縛を振り切り義手に仕込んだ凶器でロイに襲いかかったが、錬金術師の焔の一撃で、一瞬の内に仕留められた。 赤々と燃えた炎に畏れをなしたのは、始めてロイの錬金術を目の当たりにした憲兵団だけではなかった。 事後処理に当たる為に駅構内に残ったハボックは、汽車の中では鋼の錬金術師の技に助けられ、また焔の錬金術師の人外の技を目前にしたハクロ少将の、血の気の引いた面を見た。 「東方司令部は何をしているのだ! 鉄道を乗っ取られるということの重大さが判らんのか、あやつらは!」 錬金術師達が立ち去った後の構内に、ハクロの荒らぐ声が響いた。 「担架だと!? そんなものは要らん、医者に行くぐらい自分で出来るとも! それよりも東部の治安の状況を知りたいね、私は。交通機関、流通機関を抑えられるような無様な真似を、これ以上繰り返して貰いたくはないからな!」 駆け寄った衛生兵を、虫でも追い払うように手で払う。 ロイの錬金術に薄気味の悪さを感じた憲兵達までも、ハクロの罵り様には不快の表情を隠し切れない。 八つ当たりだ。 若い錬金術師達の活躍を目の前にして、焦慮を感じた壮年の男の嫉妬だ。 ハクロを軍の医療機関へ運ぶ算段をしていたハボックは、自分の口の端が嘲笑の形に上がるのを感じた。 実力の差をまざまざと見せ付けられた男にとどめを刺してやりたくなり、『特に丁重な』声で、車を差し向ける旨伝えようと歩み寄る。 「あなた」 ハクロ将軍の表情が一変した。 柔らかな女の声は、夫の身を案じた妻のものだった。 「ここはこちらの方々にお任せして、あなたは早くお怪我の手当てを……」 ハクロを見つめる夫人の両手は、怯え震える子ども達の小さな掌をしっかりと握り締めていた。 自分と妻に面差しのよく似た子ども達の瞳を見返し、ハクロは笑みを浮かべた。 「ああ、大丈夫。大丈夫なのだ」 まだ幼い娘が駆け寄り、腰を屈めた父親の首にしがみついた。 娘を抱き上げ、不安の表情を浮かべながら母親の傍らに立つ息子に笑いかける。 「治療を受けたらまた仕事だ。お母さん達のことはおまえに頼んだぞ」 「うん!」 ハクロは娘を抱き下ろし、気負って返事をした息子の頭に愛しげに手を触れた。 「ハクロ将軍、医療機関へ向かう車の準備が整いました。ご家族は警護と共に軍の宿泊所へお連れ致します」 「ああ」 ハボックの声に振り向いたハクロは、既に常の苦虫を噛み潰したような表情に戻っていたが、多少の気拙さも同時に浮かべていた。 「閣下」 「何だと言うのだ!」 背後からの夫人の視線を感じたか、ハクロは荒げかけた声のトーンを落とした。 「何か用かね」 「ご提案がひとつ。ここから車で30分程の距離に、東部随一の動物園があります。宿泊施設への迂回路としてそちらを経路に選ぶというのは如何でしょうか? 勿論、ご家族には腕利きの警護を1ダース程付けた上でのことで」 ハクロはハボックに向かって大声を上げる形に口を開き、そして黙って考え込んだ。 「『青の団』はこれで壊滅したのか?」 「はい。統率者が拘束されてから組織的には弱体化の一途を辿っておりました。僅かに残る残党もここから離れた本拠地に隠れ、バルドが掴まった今となっては遁走の真っ最中かと」 背筋を伸ばして敬礼するハボックを、ハクロは胡散臭そうにねめつける。 「君らの見通しの甘さがきゃっつらをつけ上がらせたとは考えんのかね?」 真っ直ぐ前を見るハボックからは、目の前のハクロの整えた髪の櫛目しか目に入らない。 「……フン」 こっそり見下ろすと、口の端をこれ以上ないという程にへの字に曲げたハクロが、心底面白くないという眼でハボックを睨み付けていた。 「厳重な警護を頼む。……これで貸しが消えたとは思うな」 ハクロは吐き捨てるように言い、妻と短い会話を交わすとひとり歩き始めた。 「車はどこだ。案内したまえ!」 怒鳴る寸前と言った声を上げて立ち去る夫をハクロ夫人は見送り、ハボックに向き直る。 「あの、少尉さん?」 「はい!」 「ありがとう」 動物園行きの提案について礼を言われたのかとハボックは思った。 「お安いご用です」 「心から感謝します。子ども達の為にも。あの人の為にも」 ふくよかな頬にえくぼを浮かべ、ハクロ夫人はハボックに上品な微笑みを向けた。 「……てな訳で。ハクロのおっさんはいけ好かないけど、女を選ぶ目は濁ってなかったんだなと」 「だからおっさん呼ばわりはよしたまえ」 ロイは呆れたように掌をひらひらと振った。 「倒れない強さ、誰かを支える強さを持ったいい女が、探せばそこら中にいるんだよなと。我が身を顧みると情け無いんですがね」 「頑張りたまえよ」 ロイが笑った。 その笑顔から先程の微かな暗さが払拭されたように思え、ハボックもまた笑った。 どうやら他人の恋路を邪魔したことを、この人は忘れてしまったらしい。 ハボックは気付いて苦笑した。 『別れろ』 ロイのひと言で何もかも終わりにさせてしまったことを、自分もまた忘れていたのだ。 『中央に異動になったんだけど』 『一緒に来てくれとは言わない訳ね』 何処で覚えたのだろうと思うくらいに体重の乗った、張り手の一撃。 撓る腕、トドメの手首のスナップ。 そんなものが頬を襲っても、ハボックは自業自得だとしか思わなかった。 『適当に付き合える女、後腐れのない相手と思うのは勝手だけど、それをこっちに知らせることもないのよ。この程度で済んで感謝なさい』 『うん』 女に張られた頬を押さえつつ、どうしてもついて来いと言えない自分が判っていた。 自分の選ぶ女達は堪え忍ぶ強さを持たない。 別れた男を殴りつけ、さっさと次の男に乗り換えられる女を選ぶ。 自分が付いて行くと決めた上官の進む道はまだまだ随分険しそうで、そんな所は恐ろしくて、誰かを道連れにする勇気など到底起こりようがない。 他の誰かと心を分かち合う余裕など、今の自分は持たないのだ。 『私と共に中央に異動となった。文句は言わせん、ついて来い』 傲慢に言い放たれた言葉だけがハボックの胸の奥で輝いて、突き動かし支える。 ハボックは無意識に女に張られた頬に触れ、消えかけの傷に気付いた。 長い爪に小さく掻き取られた皮膚が、漸く再生されたのだ。 傷つけた女に奪われたものはこれっきり。 なんとささやかな等価交換だろうと、ハボックは思った。 『文句は言わせん、ついて来い』 あの傲慢な言葉以上に、自分を突き動かし、揺るがせ、時には支える存在が、何時か現れるのだろうか。 「大佐がさっさと軍部の全権掌握してくれたら、俺も安心してカノジョ探しに専念出来るんですが」 「少尉」 ロイが真剣な瞳をハボックに向けた。 「それではおまえ、当分私にかかりっきりだぞ」 相も変わらぬ我が儘な言葉に満足感を覚え、ハボックは声を上げて笑い続けた。 fin. |