■■■  うたかたの 

 銀の髪が、秋の柔らかな日差しに揺れるのをよく見た。
 大の大人が、重大な責務をサボって隠れ煙草を吸うとか、それを見つけられてものほほんと笑っているとか。
 紙飛行機を延々と折り続けるとか。
 他には、あの人は何をしたろう。
 子供に呼びかけられれば、泥が付くのも気にせずどこでも座り込むとか。
 草花を差し出されれば、花びらをむしって占いをするとか。
 
 あの人の、そんな駄目な所が気に入っていた。

 のほほんと、空を見上げながら、
 何か違うものを見ていたりとか。

 あの日、断ち切られた腕から流れる赤い色を、あの人はどう思ったんだろう。
 自らの命が果てると判りきった時にでも、あの人が思いそうなことは、見当は付くが。

「三蔵。……何です、その格好は?」
「見て判らんか。墓参りに来て、タワシとバケツを持っているということの示す状況くらいは、見当付くだろうが」
「はあ」
 八戒は目を白黒とさせていた。 
 三蔵は、自分で今言った通りのものを持っている。
 それに加えて、裾を膝まで捲り上げたジーンズと、肘まで袖まくりしたワーキングシャツ、ご丁寧に腰には手拭い。
「あの人の遺言でな。長安にある三蔵法師を祀ってある墓には、一部の分骨しかしてねえ。こっちの、この墓があの人のホントウの墓だ。これが、あの人の気持ちの眠る場所だ。……何てこったよ、こんな不便な場所に……」
 苔生した、粗末な墓石が雑草に紛れて隠れていた。
 八戒は、まじまじとその墓を見、続けてその前で仁王立ちの三蔵を見た。
 三蔵は、心底呆れ返ったとでも言わんばかりの表情を浮かべていた。
「ったく。のほほんと笑っていれば許されるとでも思ってたんだな、あの人は! 後に残された人間の迷惑なんぞ、髪ひと筋ほども考えちゃいねえ」
 語気荒く言い放って墓石の前にしゃがみ込むと、苔を削ぎ始めた。
「……八戒」
「は?」
「ナニぼーっと突っ立ってやがる」
「え、ええ。あ、僕もお手伝いしましょうか」
「当たり前だ! 何の為にてめェを呼んだと思ってるんだ!? 下僕は下僕らしく、立ち働け!」

 三蔵は天竺から生還した。
 三仏神からくだった命である、妖怪の凶悪化の原因を取り除き、三蔵自身の目的であった、師の形見である聖天経文の奪回を果たした。
 長安の街は、今代三蔵法師の偉業を讃え迎えた。

 三蔵の為したことの全てを知るまでは。

 妖怪サイドの真の立て役者であったニィ・健一は、吠登城に集まった経文の解読を、ほぼ終えていた。
「十年も昔に奪った経文の解読が、終わってない筈がなかったのよ。牛魔王蘇生実験も、データ不足を口実に、だらだらと引き延ばされていただけだったんだわ。予測不可能な事故が充分考えられる研究ではあったけど、それにしても起こり得るはずのないミスの多発も、今考えれば……」
 ラボの主要研究員であった黄博士は、苛々と爪を噛みながら言った。
「……だから人間などを信頼なさるなと、何度玉面様に申し入れしたことだか」
 詰問に当たる三蔵達の前で、悔しげな声が小さく続いた。
「だがあの男がいなければ、経文の読解なんぞは元から不可能なことだったじゃろ。ニィがいなければ」
 枯れた甲高い声が、黄博士の言葉を遮った。
「公主様も、ニィがいなければ経文解読などとは思い付きもしなかったろうよ。……思い付くのに十年、読解に二十年、……そうであったら、わしの出番なぞなかったろうなあ。それを考えれば、好き勝手の出来たこの十年、ニィのお陰で得したもんとも思えるがな」
 禿頭の王博士が、しゃがれた笑い声を上げ、椅子を滑らせた。
 すう、と。
 椅子の移動と共に、項から出たコードやチューブをまとめるクレーンが天井を動くのを、王博士は満足そうに見上げる。
「天才肌というよりは紙一重じゃったがな。最初っから無天経文なんていう隠し球を持っとった、奴のひとり勝ちはしかたあるまい?」
「王博士! あ、あなたは、ニィの裏切りを腹立たしくは思わないの!? 無天経文のデータが始めからあれば、私達のこの何年かを無駄に過ごすこともなかったのよ!?」
 音を立てて椅子から立ち上がる黄博士の両肩を、いつの間にか彼女の背後に回っていた八戒が即座に押さえた。
「少し落ち着かれたら如何です? 既に状況は完全に変化してるんです。あの気の短い三蔵法師の心象、これ以上悪くしない方が得策じゃありません?」
「そーそー。この鬼畜坊主、キレるとナニすっか判んねえのよ? あ、知ってる? でも実際に見てみたい? 物好きな姉ちゃんだねえ」
 壁にもたれて立つ悟浄が、横目で三蔵を見ながら言った。
 室内にいた大方の者の予想通り、三蔵の手には既に拳銃が握られている。
「観客の前で実演したいという、貴様の方が物好きだろうが」
 撃鉄を起こす三蔵を、悟空が見つめる。
 大きく開かれた金瞳が真っ直ぐ自分に向けられていることに気付いた三蔵は、小さく舌打ちをして懐に拳銃をしまった。
 懐に入れた掌に、奪回したばかりの聖天経文が触れた。

「あんたらに最後の確認する」
 尋問しながら三蔵は、師の温もりを思い出すように、懐の経文を指先で触れ続けた。
「聖天経文は、既にニィ・健一によって解読を終えていたんだな?」
「ええ、とっくにね。整理されたデータが、たっぷり出て来たわ」
「無天経文の解読もだな?」
「ああ。ソレが真っ先にじゃろ」
「砂漠から掘り起こした経文は?」
「ぼちぼちってとこだが。ニィの残したデータがあれば、すぐに終わるじゃろうになあ」
 黄博士が睨み付けるのに、王博士は肩を竦めて見せた。
「真実じゃろ? あんたは最後までやってみたいという気はしないのかね? わしゃ、未練があるがなあ」
「!!」
 八戒の掌の下で、黄博士の肩が震えた。
 口惜しさに、歯噛みしている。
 八戒はこっそりと三蔵の方を見やった。
 三蔵は、無表情のままで立っていた。

 吠登城を動かしていた玉面公主と、ニィ・健一こと烏哭三蔵を倒し、聖天経文を取り返して以来、三蔵の感情の起伏は著しく減った。
 茫然としているのかもしれないと、八戒は思っていた。
 自分の定めた目標を、終えてしまって。
 為す事がなくなってしまって。
 ぽかりと、目の前に広がる空虚に気付き。

 紫暗の瞳は、部屋全体を見ていた。
 視線の定まり切らぬ目で、時間を遡り存在しないものまでを見ていたのかも知れない。
 このラボで十年の時を過ごしていた、烏哭を。
 遙か昔に見た、空に溶け込んでしまいそうな微笑みを浮かべた人を。

 不意に、三蔵は傍らに立つ悟空を見た。
 金晴眼は、ずっと三蔵を見つめ続けていた。
 出逢った時から変わらぬ瞳だったと、三蔵は気付いた。
 天から与えられた封印の五百年を取り返す勢いで、よく笑い、叫び、駆け回った子供の目線の高さが、初めて出逢った時から随分と近付いて来ていた。
 その瞳が、今もまた真っ直ぐに自分を見つめ続ける。
 悟空から視線を外した三蔵は、ぐるりと室内を見回した。
 壁際の悟浄が、薄く笑みを浮かべながらも、強い瞳で三蔵を見いていた。
 不貞不貞しさの表れた唇に、灰の長くなった煙草が咥えられていた。
 椅子に座った、黄博士と王博士。
 どうしようもなく急展開した運命に、これから翻弄されることを覚悟し、挑むように、探るように三蔵を見ていた。
 八戒。
 孔雀の羽のような光を宿した瞳が、三蔵の紫暗の瞳に出逢って和らいだ。
 この期に及んでも微笑みを象ろうとする唇を見て、三蔵は口の端をへの字に曲げた。
 
「玉面がいなくなったとして。ここまで深くなった妖怪と人間との間の確執が、簡単に解消されるとは思えん。そして妖怪達は、経文のパワーを利用しようと吠登城が動いていたことを、充分知っている」
 三蔵は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「経文が人間の手にある今、あんたらの知識は他の妖怪達にとっては大きな魅力だ。人間達にとっては、抹殺すべき憎しみの対象だろうな。そして神々は無殺生を貫く建前だ。……そうなると面倒臭いことに、今まで敵だったあんたらが『生きてる限り』は、長安にはあんたらを保護監視する必要が出て来るという訳だ」
 三蔵に睨まれ、暗殺を仄めかしているとも取れる言葉に、黄博士が身を強張らせた。
「今までのことを考えれば、やむを得ないわね」
「わしはここを離れたくはないなあ」
 あっけらかんと言う王博士に、悟浄が何か釘を刺すひと言をと口を開き、馬鹿馬鹿しさに気付いたように、やめた。
 咥え煙草の灰が落ち、手近の吸い殻だらけの灰皿の隙間にハイライトを押し込む。
 悟浄が新しい煙草を咥えるのを見て、三蔵も自分の袂からマルボロを取り出した。 
「あんたらは自業自得で済むがな、」
 ラボの蛍光灯の白々とした灯りの下に、一瞬オイルライターの火が着き、消える。
「迷惑なんだよ、こっちは。自分の物を漸く取り返して、まだ妖怪共が経文を狙って来やがるのを警戒しなきゃならねえ。冗談じゃねえんだよ」
 二筋の紫煙が昇り、天井近くで渦巻いた。

「牛魔王蘇生実験の施設は、完全に破壊する。牛魔王は厳重に封印を重ね、金輪際誰にも手出し出来ないように、三仏神に押し付けてやる。もう誰の手にも負えないようにな。そしてあんたらの処分だが」
 黄博士の唇が緊張に噛み締められた。
「たった今から経文解読の研究に戻れ。烏哭のデータだろうが何だろうが、利用しまくれ。俺の……この、魔天経文も、一辺コッキリなら貸してやる」
「な!?」
 悟浄が目を剥いた。
「速攻で解読を済ませろ。そして解読データを桃源郷中にばらまけ。妖怪も人間もまんべんなく行き渡るようにだ。経文の力を利用出来る実力がある奴には、それが出来るカタチの知識にしろ。経文自体にありがたみがなくなるまで、徹底的にデータを搾り取れ」
 王博士の椅子がマシンに向かって滑るのを、黄博士が茫然と見送った。
 キイイ。
 椅子の金属スプリングが軋む嫌な音に、王博士の枯れた笑い声が交じった。
「判り易いがとんでない坊さんじゃの!ホレ、黄博士!」
「……どういう……」
 黄博士は、王博士と三蔵の間に忙しなく視線を行き来させた。
 悟浄も三蔵に食ってかかる。
「おい三蔵っ! 一体どういうことよ!? 今まで何の為に……」
「これ以上俺のモンに手ェ出して来るバカが、来ねえようにする為に決まってんだろうが」
 肩に掛かっていた経文が、三蔵の掌の上で巻物の形状に変化した。
「牛魔王復活なんて、バカげた事態にならなきゃいいんだよ」
 経典を受け取った王博士の笑い声を聞きながら、三蔵はラボから出て行った。
 その後ろ姿を、慌てて悟浄が、そして黙って悟空が追った。
 最後にラボを出ようとした八戒の耳に、王博士の言葉が入った。

「こうでもせにゃ、今度は人間による妖怪の虐殺が始まるだろうて」

「玉面様の指揮も無く、わしらはまた新しく自分達の生きる場所を探なきゃならん。一からやり直して、また人間との関係を築き上げるまでは、わしらは狩られる側だ。互いが強大な力を利用し得るという緊張感の持続が、上手い方向に働けば、復讐の始まりを制する機構になるかもしれん」
 王博士が黄博士の尻を軽く叩いた。
「きゃ!?」
「さて、のんびり無駄話をしとる暇などないて!」
「博士!!」
 続く言葉は、ドアに遮られて聞こえなくなった。

「アノ後、大変だったんですよねえ、そう言えば」
「何か言ったか?」
 墓の周囲の雑草を毟る八戒に、三蔵は顔を向けた。
 乾いた寒さにも関わらず、三蔵は額に汗を浮かべていた。
 墓石は、苔がきれいに剥がし落とされ、今はタワシの洗礼を受けている。
「八戒、バケツに水汲んで来い」
「水道まで、どのくらいあると思って……」
「先刻自分で歩いて来たんだから、そのくらい判り切ってる! だからお前に行かせるんだろうが!」
「人遣いの荒さ、全く変わりませんねえ」

 長安は天地をひっくり返したような大騒ぎになった。
 人々は当初、巨大なパワーが、自分達と同様に妖怪にも授けられたことに不満を持った。
 だが王博士の言葉通り、その微妙な緊張感が続くことが、人間と妖怪との関係に急激な変化をもたらすことを回避させた。
 人間と妖怪との間に講和が設けられ、今はまだぎこちないものではあるが、商業的な交流も軌道に乗り始めた。
 三蔵の罷免を求める声もあったが、それは三仏神の取りなしによって退けられた。
 長安から離れられることを心中期待していた三蔵は、引き留められた際に露骨に嫌な顔をした。

「経文の力は、最早三蔵法師だけのものではございません。私が長安に残ることは、形骸化した権力を神が認めたということになりますまいか?」
「形骸化しているとは謂え、未だそのカタチに価値を見出す者も多い。そなたはまだ若い。桃源郷を統べる、次のシステムを長安に作り上げるだけの時間は持っておろう」

 三仏神との面談の後、三蔵は長安に残っていた八戒と悟浄に八つ当たりをした。
「奴ら、『時が経てば、頭の固い権威主義者達の寿命も尽きて、自然と数が減って行くのだろうが』だと。神々の無尽蔵の時間と、この俺の時間の、砂時計一粒分の価値の差を笑っていやがる。……いや、アレは嫌がらせか?」
「三仏神も、さんちゃん手放したくないんじゃねえの? お前、顔だけはいいからなあ」
「愛されてると、僕も思いますよお」
「クソ! 経文だけ持ってトンズラする筈だったのに」
 三蔵は、妖怪と人間との交渉の場には必ず引き出されながらも、影ではかなり強硬に『三蔵法師』に押し付けられた任を、他の役職に割り振り出した。
 人材登用の的確さと事務処理能力の有能さがそれで更に広まり、本来は減っている筈の職務の他に仕事を押し付けられることが多くなったのが、三蔵の最近のジレンマだったのだが。
「前より全然楽しそうじゃん」
 怒りながら忙しく働く三蔵を、武道教室で働くようになった悟空は笑いながら見ていた。

「ところで、経文持ったまま楽隠居なんて、そんなこと可能だったんですか?」
「紛失したと言い張るつもりだった!」

 それでも。
 三蔵は漸く、自分だけの時間を確保するだけの自由は得られるようになった。
 まとまった休暇が取れたから旅行の供をしろという連絡を、悟浄も八戒も喜んだ。
 十年を経て、三蔵はやっと亡くなった師の墓参りを果たす。

 ぶら下げたバケツから水がはね、八戒のジーンズを濡らした。
 墓参りの間、近くの村で待っていると言った悟浄と悟空を、無理にでも連れて来ればよかったと、八戒は苦笑した。
 八戒は、三蔵の初めての墓参と聞いた時に、同伴を辞退しようとした。
「来ないのか?」
「……三蔵が嫌でないのなら、ご一緒します」
 見返して来た三蔵の瞳に微かに失望の色を見取ったと思い、墓前までやって来たのだが。
「悟空達がここまで来なかったのは、遠慮じゃなくて、先見の明があったってコトなんでしょうかねえ……」
 たぷたぷと水が揺れ、八戒は水汲みは重労働であると、改めて思う。
「八戒!遅い!」
「はーい。もう、本当に人遣いが荒いったら」

 八戒はその後数回墓と水道を往復し、三蔵は墓石を洗い続けた。
 磨き立てられた墓の前に、三蔵は献花して跪く。
「お師匠様、漸く……」
 穏やかな声は、小さく掠れていたのかも知れない。
 八戒に聞き取ることの出来なかった言葉の続きは、「経文を取り返しました」か「ここに来ることが出来ました」か。
 長い、長い時間をかけて手を合わせる三蔵の、金糸に半ば隠された横顔は、八戒の初めて見る晴れやかさだった。
 八戒は三蔵の隣で手を合わせた。
 自分の命と引き替えに三蔵を生かした人の冥福を、心から祈った。

 日暮れ時。
 タワシ入りのバケツを手に持つ八戒は、細い道をぶらぶらと歩く三蔵の後に続いた。
 墓地から村へ。
 村では騒々しい明るさでふたりを出迎えようと、悟浄と悟空が待っている筈だ。
 賑やかに旅をしていた頃を、何も言わずにふたり思い返していた。

「三蔵。長安はいつ頃離れられそうですか?」
「まだ何年かは掛かりそうだな」
「でも実現は出来そうですか」
「当然だ」
「長安を出たら、何をするんですか? やっぱりお坊さん続けるんですか?」
「経読むのが一番手慣れた仕事だからな。まあ、その時になってから決めればいい」
「長い旅でも一度しませんか?また四人で」
「トラブルメイカー達とか?冗談じゃねえ」
 言いながら、三蔵の肩が微かに揺れるのを八戒は見た。
 八戒には、三蔵が笑ったように感じられた。
「……もう一度くらいなら、あのバカ騒ぎも悪くはないかもな」
 のんびりと歩きながら、三蔵は天を見上げた。
 細い道を両脇から覆う木陰の間に、茜空が見えた。
 みるみるうちに沈む夕日に、一番星が微かな光を投げかけた。

「ねえ、三蔵」
「ん」
 後ろ姿が、路傍の草を引き抜いて、指先で手慰んだ。
「あなたのお義父さんは、お墓参りなんて来なくていいよって、思ってらっしゃたんでしょうね。頑張って生きててくれたら、わざわざ来なくていいよって。それでこんな不便な所に」
「だからって、来たい時に来られない場所を選ぶこともなかろう。こっちの都合はお構いナシなんだ、あの人は」
 指先から揺れる、猫の尾のような雑草に夕日が当たった。
「三蔵。僕は今日、ここに来てよかったんですか?」
「ああ。墓のあの荒れ具合……。ひとりで片付けようと思ったら、時間がかかったろうな。十年分の掃除だからな。助かった」
「それだけですか」
 微妙に八戒の声のトーンが下がり、それに気付いたのか気付かなかったのか、三蔵の指先で草の穂がくるくると回った。
「何だと思ったんだ」
「いえ、何となく……。あなたが僕に来て欲しがってるのかと思ったものだから」
「ほお」
「僕も、あなたのお義父さんに、一度ご挨拶したいとか、そう言うことを。その、僕の顔も見て欲しいなあなんてことも思ったりして……」
 くるくると、雑草の穂が茜に映えて回り続ける。
「それでいいんじゃねえか? てめェが挨拶したかったってんなら」
「いえ、僕の気持ちだけじゃなくて、問題はあなたの、」
 言いかけて、八戒は額に掌を宛てた。
「気の回し過ぎで余計な緊張してたみたいです。気にしないで下さい」
 三蔵は一向に振り向こうとせず、枯れ草色の穂を振り回したまま空を見上げ歩き続ける。

「三蔵」
「なんだ」
「長安を出たら。あなたは何をしたいんですか?」
「さあな、今はまだ見当も付かんが……。やろうと思えば何だろうと出来るな。やりたいことが出来たら、何でも出来るんだな。旅だろうが何だろうが。何処へだろうが行ける」
「何処かへ、行ってしまうんですか?」
 八戒の声に、焦慮が滲んだ。
 三蔵は漸く振り返る。
 赤く大きな夕日が、三蔵の姿を縁取った。
 髪も躯も、指先に摘まれたままの草の穂も、茜と金に輝いていた。
 眩しさに、八戒は眼を細めた。
 逆光に伺えぬ表情から、楽しげな声だけが八戒の耳に届く。
「この俺が供も連れずに? 八戒、先刻から質問責めだな。先ずお前の希望も言ってみろ。何処へ行きたい? もし向かう場所が同じだったら ―――― 」

 トモニ、道ヲ歩モウ。







 キイイ。
 スプリングの軋む音と同時に、王博士の姿が移動するのが目に入る。
「んんー」
 ラボのソファで仮眠を取っていたニィ・健一は、身を起こすと両腕を上げて伸びをした。
「呑気なものね。玉面様からのオーダーはもう済んだの?ニィ博士」
 ファイルを胸に抱えた黄博士に睨み付けられ、ニィは欠伸を噛み殺した。
「済みましたよぉ。手ずからお届けして、また別のオーダーをそこで仰せつかり、……散々腰動かしてオーバーワークで、寝不足気味なんだよねえ」
「! 下品な男!」
「公主様のお好みにケチ付けちゃダメでしょ?」
 黄博士が頬を紅潮させながら離れて行くのを、ニィ・健一は薄笑いを浮かべながら見送った。

 仮眠中に夢を見た。
 夢は記憶を整理するものだという。
 実際に見たものの記憶だけでなく、情報として得たもの、予測や想像したものの記憶も、だから夢に見ることもあるのだろう。
 自分にしては随分と可愛らしい夢を見たものだと、ニィが思う端から、繙けるように夢が思い出せなくなって行く。
「ああ。そう言えばボクもあの人の墓には、行ってないんだっけなあ。流石にちょっと、顔出し出来ないからねえ」
 伸ばしっぱなしの頭をがりがりと掻く。
 過去も未来も、何の報告も出来なくなってしまった自分を思い。

 夢に見た夕日に隠された表情が、晴れ晴れしくあったろうことを、微かに羨ましく思い描いた。










 終 



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