◇ 子猫日記 4 『子猫日記ぷち』◇
あるところに、ごじょさんというお兄さんがいました。
ごじょさんのお家には、雨の降る夜に貰った子猫がいました。
黒に近い焦げ茶色をした、しっぽの長い子猫です。
ごじょさんはその子猫を、八戒と呼んでいました。
「おい、八戒」
名を呼ばれると、八戒はすぅっとごじょさんの傍に近付きます。
「ミルク暖めたぞ」
大好きなミルクを貰うと、八戒は目を細めて低く喉を鳴らします。
ごろろ、ぐるる。
『ありがとうございます。いただきますね』という、猫語のお礼を言ってから八戒はミルクを飲みます。
ごじょさんは、八戒がミルクを飲む様子を見るのが好きでした。
八戒が、お行儀良く、小さなお皿から撥ね散らかすことなくミルクを飲み、最後にピンクのお鼻についた分まできれいに舐め取るのを、しゃがみ込んで見守ります。
「美味かったか?」
ごじょさんの言葉に、八戒はまた、ぐるるるる、とお返事をしました。
人間のごじょさんには猫語は判りませんでしたが、八戒が『ごちそうさまでした』と言っているのは判りました。
ごじょさんは、自分のおうちの猫が大層お行儀がよいことを、嬉しく思っていました。
◇ ◇ ◇
ごじょさんは、一日に何度も子猫の名を呼びます。
「八戒」
どこかの隙間に隠れている時に、うっかり出入り口を荷物で塞いで閉じ込めて仕舞うんじゃないか、いつの間にか足下で寝てたりしたら、間違えて踏みつけて仕舞うんじゃないかと、不安に思うからです。
「八戒、どこだ?」
ごじょさんに呼ばれた八戒は、どこにいてもすぅっと現れ、喉や鼻を鳴らします。
『どうかしました?』
『悟浄、何かご用ですか?』
始めのうちは丁寧に挨拶をしていた八戒も、ひっきりなしに名を呼ばれるので、徐々に困った様子を隠さなくなって来ました。
「八戒」
ごろ。
『やれやれ、今度は何の用なんです?』
お返事自体は短くなっても、そこにこめられた気持ちが複雑であるというのは、人間の言葉と一緒ですね。
八戒にしてみれば、悟浄の心配な気持ちは判るものの、自分が赤ちゃん猫のように思われているようで、心外なのです。
ごじょさんも、八戒の迷惑そうな目つきに気付きました。
八戒は、決してごじょさんに踏まれることはありませんでした。
狭い隙間にはまって、にゃあにゃあと助けを呼ぶこともありません。
ミルクをあげればきれいに舐めてお礼を言うし、暖かな寝床を作ってやれば喜んでそこに入り、ごじょさんが呼べば必ず近くにやって来ます。
とても礼儀正しい子猫なのです。
「でも、自立しちゃってんのね」
ごじょさんは、ほんの少しだけしょんぼりしました。
ごじょさんも、好きこのんで自由なひとり暮らしをしています。
でも、暖かくて小さな猫を構って可愛がるのも、楽しかったのです。
「俺としたことが、余計なことしちまってたってワケね」
子猫を前に、肩を落としたごじょさんです。
すると。
に゛ゃに゛ゃ。
滅多に鳴き声を聞かせない八戒が、文句ありげに鳴き声を上げたかと思うと、ごじょさんの躯を駆け上がり、気落ちする角度の肩に、ちょこんと乗っかりました。
八戒は、何事かと覗き込もうとするごじょさんの頬を舐めました。
ぺろ。
子猫のぴんく色の薄い舌が、ざらりとした感触と熱をごじょさんに伝えました。
相変わらず猫語の判らないごじょさんですが、その時、八戒の伝えたいことが判ったような気がしました。
「……取り敢えず、暖めたミルクでも飲むか?」
にゃ!
その日から、ごじょさんと八戒は、前よりも仲良くなりました。
すりすりや、なでなでや、ひっくり返ってお腹を見せたり、肉球の匂いくんくんの時間が長くなったりしたのではありません。
ひっきりなしに呼び合う訳でもありません。
ただ、お互い、相手のことをもっと好きになったというだけでした。
「行ってくるぜ。窓は開けとくからテキトーに散歩して来な」
ごろごろごろ。
ごじょさんがお出掛け前に声を掛けると、八戒は出窓の上から喉を鳴らしていってらっしゃいのお見送りをします。
ごじょさんは、背中に八戒の声を聞いて家を出ることも気に入りました。
家を出て、暫く歩いてから振り返ると、まだ出窓の内側から黒い子猫がお見送りをしているのです。
構われ過ぎを喜ばず、喉なでなでもあまりさせてくれない子猫ですが、ごじょさんのことをよい家主と思っているのです。
「………ほんのちょっとだけ、淋しいかも。猫飼う醍醐味がなあ……いや、まあ、その」
◇ ◇ ◇
初夏のある昼下がりのことでした。
のんびりとソファに寝ころんでいたごじょさんは、おうちの近くでカラスが鳴いているのに気付きました。
ガア、ガア。
ガア、ガア。
カラス達が、卵を孵す為に巣をかけるシーズンなのです。
巣を守ろうと、カラス達が気を立てているのです。
ガア、ガア。
卵を狙う敵を許さないと、警戒する声を上げるのです。
無闇に産卵期のカラスに近付いてはいけません。
「………!?」
まさか、と思いながら、ごじょさんはおうちを飛び出しました。
カラスの声に導かれて、ごじょさんは一本のシイの木の傍に行きました。
案の定、黒い子猫がシイの木に登って、枝分かれの又に蹲っています。
ガア、ガア!
子猫を睨む、怒ったカラスの鳴き声は、益々激しくなって行きます。
羽根を広げたカラスは、子猫よりもうんと大きいのです。
八戒がどれだけ勇敢に戦っても、勝ち目はなさそうでした。
「八戒!?どうした、降りられないのか!?」
ごじょさんが慌てて叫ぶと、カラスは一歩退きました。
それでも、作りかけの巣を守る為に、近付く敵に警戒音を上げ続けます。
「八戒!来い、降りろ!」
叫ぶごじょさんに、八戒は一瞬目をやり、素早く木から駆け下りるとそのままどこかに走って消えてしまいました。
ごじょさんが八戒の後ろ姿を茫然と見送るうちに、カラスもいつの間にか静かになっていました。
その日の夕方、お出掛けしようと家を出たごじょさんは、またカラスの警戒音に気付きました。
八戒が、今度は松の木に登って、カラスに叱られているのです。
ちくちくの木肌に貼り付いて小さくなっている八戒は、まるで黒い木のコブのようです。
小さな木のコブに向かって、真っ黒で大きなカラスが『あっちへ行け!』と怒っています。
ごじょさんは松の木の傍に行き、静かな声で八戒を呼びました。
「八戒、こっち来な」
八戒はごじょさんの方に振り向きました。
目を逸らした敵を攻撃しようとカラスが飛びかかって来る直前に、八戒はごじょさんの腕にぴょーんと飛び移りました。
ごじょさんは、自分の服の中に八戒を押し込むと、慌ててカラスから逃げ出しました。
おうちへ向かうごじょさんに抱えられている間、八戒は目を瞑って、足をだらんと垂らしていました。
ごじょさんは、暖かく柔らかな子猫の躯を抱きながら、考え事をしていました。
八戒は、何の為にカラスに近付いたのでしょう。
営巣の様子を見学したかったのでしょうか?
カラスに卵を見せて貰おうとしていたのでしょうか?
それとも、卵や生まれたての雛を「いただきます」したかったのでしょうか?
「真っ黒だったからか?」
八戒の、大きな三角の耳が、ぴくりと動きました。
「幾ら真っ黒でも、カラスはお前の仲間じゃないんだよ」
ごじょさんは、出来るだけ優しい声で言いました。
自分がとても可哀相なことを言ってしまったような気がしたからです。
子猫は、目を瞑ったままでごじょさんの胸に鼻を擦り付けました。
くんくんと、暫くごじょさんの匂いを嗅ぎ続けていました。
◇ ◇ ◇
それからずいぶんと時間が経ちました。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、空気がきんと冷えるようになった、ある雨の降る晩のことでした。
ごじょさんは、女の人の傘に一緒に入れて貰って歩いていました。
傘は小さく、ごじょさんの躯の半分は、雨に濡れてしまっていました。
夜の雨は冷たく、肩から体温が奪われて行きました。
「あら、子猫」
女の人が立ち止まり、道の端に置かれた段ボールに目を留めます。
段ボールの中には、濡れて毛皮がぺちゃんこになった白い子猫が一匹、躯をきつく丸めていました。
「寒そう」
女の人は、そう言ってごじょさんの腕に躯をくっつけました。
「寒そうだけど。面倒見て上げられないわ」
冷たい雨に濡れる子猫を見る程に、女の人は、ごじょさんの腕の暖かさを確かめるように触れました。
「傘、この子にあげちゃっていいかしら?」
女の人はごじょさんのお返事を待たずに、子猫の段ボールに差し掛けるように、傘を地面に置きました。
ぱらぱらと顔に冷たい雨を浴びながら、ごじょさんは思い出していました。
八戒も、いつか雨の晩にやって来たなあ、と。
ぐっしょり濡れた小さな猫が、よく拭いて乾かしてやると、ふんわりすべすべの毛皮が膨らみ、膝の上でとても暖かに感じられたのだと、思い出しました。
しっかりもののクセに、もしかしたら寂しがりかもしれない真っ黒子猫に、欲しがっているものをあげられるかもしれない。
目の前の子猫は真っ黒ではないけれど。
もしかしたら。
ずぶ濡れで帰宅したごじょさんは、自分の腕の中の子猫を見た瞬間、八戒の瞳が大きく見開いたのを、ずっと忘れないだろうと思いました。
ずっとずっと忘れないだろうと思いました。
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今回は飼い主悟浄が主人公です。
悟浄は普段、「猫なんて、ただの無駄飯喰らいだぜ」なんて顔してそうですが、
一旦ナデナデを始めたら、きっと優しく上手に猫を気持ちヨクさせてあげるんじゃ
ないかという気がします。
てくにしゃーん。