■■■  風の色 

 がくがくと、首を振った。
 寸前に問われた言葉が何だったのか、頷き、与えられた後には忘却の彼方。
 憶えていたら、翌朝憤死するくらいのことは言われたのかもしれない。
 愉悦に満ちた八戒の声音だけが、脳に染み込んで離れない。

 髪を掬おうとした八戒の指を、三蔵は手の甲で弾いた。
「つい先刻まで、あんなに可愛かったのに」
「大した趣味だな。ヨがって脚広げた野郎が『可愛い』か」
「拗ねないでくださいよ。機嫌悪くなっちゃいました?」
 背に掛けられた八戒の声に返事もせずに、三蔵はバスルームへ向かった。
 汗を帯び、一度乾きかけた体液がまた、体表でぬめりを取り戻したようだった。
 三蔵はシャワーを浴びながら体中をきつく擦った。
 胸に浴びた熱い湯が、重なった重みを忘れさせる。
 体重のかかった場所から広がって行った甘さを、流し去る。
 そう信じながら躯を掌で擦った。
 腹や下肢を汚したぬめりを落とし、金糸の覆う頭をシャワーヘッドの真下へ持って行った。
 強い水圧に叩かれ、完全に意識を情事から日常へ切り替えようと。
 
 汗が一瞬香り、消え去た。
 振り仰いで、髪を後ろへ流して額を剥き出す。
 手荒く髪に差し込んだ指で、顔を擦ろうとしてまた、ぬめりを感じ取る。
 体液も唾液も入り交じって三蔵に張り付いていた。
「チッ」
 掌を荒く顔に擦り付け、快楽の名残を流し落とそうとしても、まだ首筋に触れれば八戒の唇の触れた通り、痕跡を感じ取る。
 首筋に。
 頬に。
 顎に。
 耳朶に。
 耳孔に差し込まれた舌や、外耳の軟骨を囓った歯を、浄めようとすればするほどなぞるばかり。
「しつけえんだよ」
 頭頂に当たったシャワーは、額から鼻梁を舐めて三蔵の肢体に流れた。
 膚の上を川のように流れ落ちる湯に、過敏になったままの神経がかき乱されそうになるのを、やっと踏みしめるタイルの床の冷たさが止めた。
 ひやり。
 冷たく堅い手触りが、足の裏と、壁に付いた掌に。
 冷たさに縋るように三蔵は躯の重心を壁に傾け、片脚を上げた。
 足指の間を縫って、指で強く擦り上げる。

 ココニモ、指ヤ舌ガ触レテ来タ。 
 
 押し潰され、掲げられた脚の先で、所在なげだからと指先を掴まえられ。
 咥え込まれて、しゃぶられた。

 舐め上げられて三蔵は、羞恥と混乱に高められた性感の中、何か別のものを思い出していた。

 子供の頃、野遊びに連れ出された。
 山歩きをし、広がる草地で休憩を取った。
 丈の高い雑草はそっと下ろした掌を柔らかく撫で、時に鋭い縁を持った葉が、ひりひり滲みる薄い切り傷を作った。
 ぽつ、と、小さく浮かぶ赤い玉を、舌先で舐め取る人が傍らにいた。
 自分の傷を舐められるという気恥ずかしさも、日常から離れた野山の中では、素直に受け入れられた。
 幼児に言い聞かせるような、おまじないの言葉も。
 草地の探検は思う存分繰り広げられ、剥き出しの膝や腿は草の穂になぶられ尽くした。
 細長い葉は、柔らかに皮膚に沿い、そして切り傷だけを後々まで残す。
 その痛みも気にせずに、明るい緑の中を歩き続けた。

 やがて小さな沼地に出た。
 履き物を揃えて脱いで、そろそろと沼地へ踏み出したのは同行者の方だった。
 底なし沼だったらすぐに助け出さねばならないと、慌てて追おうと泥に爪先を付けた。

 日溜まりの泥は、温く指先に触れた。
 体重を掛けて踏み入ると、泥は足を沈めながら指の間をにゅるりと通った。
 滑らかに、気付かぬうちに爪の間にまで入り込みながら、一歩一歩行くごとに、三蔵の足の裏に張り付いた。
 おぼつかない足取りで滑って転ぶことを恐れながら、温くて冷たくて滑らかな感触に、躯を沈めて掌にすくい上げたい誘惑を感じていた。

 その後見つけた清水で足を洗った時に感じた清冽さと冷たさ、夕日の教える遊びの一日の終了に、それきり忘れ果てていた。
 清水の流れに足先を付け、指同志を擦り合わせて泥が流れるのを見た。
 指の間を泥がすり抜けて行く感触も、一緒に洗い落とされてしまった。
 腕や足の切り傷だけが、束の間の遊びを思うよすがだった。

「たかが子供の泥遊び並みかよ」
 三蔵はコックを音を立てて締め上げた。
 ぽたぽたと落ちる滴をタオルに吸い取らせ、大雑把に躯を拭き上げて、新しいタオルを頭に被ってシャワールームを後にした。
 
 静まり返る部屋、乱れたベッドには人影もなく。
「貴様、このベッドを遣う気か?」
「だってこっちのシーツの方が気持ちいいですし」
 まだベッドメイキングの名残の見えるベッドから覗く黒髪が、急に起き上がって三蔵の腕を強く引いた。
「……ね?」
 糊の利いたシーツが掌に触れるが、三蔵の躯は八戒の上に乗り上げたままだった。
 ひと言釘を刺そうともたげた頭を、タオル越しに掌がくるみ込む。
「ああ、またこんなに濡れたままで」
 嬉しげな声に、三蔵は目蓋を閉じた。

 情事の気怠さはシャワーで落とし、ただ残るのは心地よい疲労感。
 掌や足に触れるシーツの、真新しさに似た感触。
 髪を包み込む乾いたタオル。
 頬に触れる柔らかさ。

 頬や躯をなぶった風に似ている、と三蔵は思った。
 全身でひたった、風と、草の撫でる感触。
 心地よく風に身を包まれた開放感と、沼地で泥に汚れながら感じた、ほんの僅かな罪悪感。
 八戒の躯の上で俯せて、シーツに触れた足の甲を滑らせた。

「眠いんですか? ……もう怒ってないんですか?」
「別に何も」

 声すらも遠くから聞こえて来るように感じられて。


「おやすみなさい」


 穏やかでありながら、性愛に濡れた時よりも尚、愉悦を深く潜めた声。
 ぱたりと胸に倒した頭を、抱え込むよう、躯を抱き込むよう回された腕が、心地よく。
 草地を歩く子供をくるんだ風や、強く誘惑した温い泥。
 『快楽』をキーワードに、断片的に思い浮かぶ感触の数々が、シーツに触れる掌、足の甲からまた広がり。
 疲れたままに、三蔵を眠りに引きずり込もうとする。

 嬌態を繰り広げたばかりのベッドは、すぐ近くにあるが瞑った目には入らなかった。
 心地よさと、広がる清潔なシーツ。
 背に触れる掌も、耳のすぐ側で囁かれる声も、いつかの三蔵を包んだ風に似ていた。
 淫らな熱狂の時間のもたらす疲れと、子供の頃に一日野山を歩いた疲れの、心地よさの相似を意外に思いながら、三蔵はシーツに躯を預けて行った。

 緑の中で風に吹かれる夢を見そうだと、三蔵は唇の端を少し引き上げた。
 全身を撫でて行く風の夢を見そうだと、微かに顔をほころばせた。

 時に蘇る記憶に、自分の躯を抱き締める男もいつか加わる。
 身も心も溺れる時間も、くるみ込む腕も。
 ただ一番色鮮やかなのはきっと。

 身を包み込むような、緑の風。











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