「悟浄、髪の毛、伸びましたね」
声を掛けられる前に触れられたのに、ちっとも不快じゃない。
座り込んで煙草をふかす、その真後ろから屈み込むように。
耳の後ろ辺りから、すくい上げるように両手の指を差し込まれた。
持ち重りを確かめて、そのまま指で梳いて行く。
ひんやりとした、男のものとしては破格に滑らかな、八戒の指。
「切りましょうか?」
毛先を摘んで持ち上げる。
痛んでたか?
枝毛とか見つけると、切りたくて切りたくて、我慢出来なくなるんだよな、お前。
何もヤロウの髪弄って、そんなにわくわくした声を出さなくても。
判ってはいるけど。
柔らかいモン撫でるとか。
ガラスの破片でプリズム作るとか。
額ぶっつけて瞳孔に映る姿を眺めて笑うとか。
そんなむず痒いことが、きれいだって、大事だったって。
……じじむせえよな。
そのくせ、剥き出しの殺気とか。
さらけ出すのは、怖くはないか?
誰かの為だけに、感情乱す姿のグロテスクを、お前はよく理解してんだろうにな。
夕べ三蔵を見舞った災禍を思い出した。
気付いて俺達が三蔵の部屋に飛び込むと、取り落とした拳銃。
襲いかかる妖怪達。
暗い室内に走った、細い光。
八戒の掌から放たれた気孔波が、三蔵に飛びかかろうとした妖怪の、顔のど真ん中に当たった。
赤黒いものが飛び散った。
飛散する紅に染まって振り向いた三蔵を見る、八戒の眼は。
紅い毛先を摘む指は、今は飽くまでも優しい。
お前がどれほど怖がっているか。
損なわれ、喪われることを、畏れているのか。
ちったあ、判らせてやっても、いいのかもしれない。
樹にもたれ、葉ずれの中で眠る『アイツ』を見て、そう思った。
八戒の触れ方は、野郎が背後から密着する不快感とか、眉間や盆の窪といった急所に触られる、生理的な拒否感を感じさせない。
同性間に生じる緊張感や、縄張り意識のようなものを刺激しない無性性。
並み以上にマウンティングやスプレイ行為の多い、俺みたいなのは、こういう奴とでもないと、身近にいられないのかもしれない。
「動かないで下さいよ。首筋、切れちゃいますよ」
くすりと笑うと、すぐに怒られた。
「お前の手が触れんのが悪いんだろが。そういう風に際どく触られっとキちまうんだって」
「感じやすいのは結構ですけれど、僕に感じていてどうするんですか。ほら、動かないでって」
「だから、そういう風に触んなって言ってんだろがっ」
無性性の男相手で、性的な冗談も野卑にならない。
それどころか。
一瞬、背後にタチの悪い笑みを感じた。
指先が髪の中に潜った。
耳朶の後ろを通って、登って行く。
薄い爪が、まるで縋り付く愛撫のような、そんなぎりぎりの力加減で線を描いた。
過去に抱いた女達の、誰かはそんな風に髪に指を潜らせた。
記憶の快楽に、条件反射でエレクトする。
小さな鋏を手にした八戒が、嬉しそうに言った。
「ね、もう少しですから、少し大人しくしていて下さいね……?」
タチ、悪過ぎ。
こんな奴相手にセックスすんの、精神衛生上宜しくないだろうなあなどと思い、つい眠っている筈の三蔵を横目で見れば。
「…おい」
「ええ」
すげえ目で睨み付ける、金髪のクソ坊主。
「怒ってる、怒ってる」
「いいんです。仕返しですから」
「俺は当て馬かよ」
機嫌よさそうに八戒は鋏を動かす。
「いいえ。悟浄は悟浄。三蔵は三蔵。……僕、欲張りですからねえ」
「何?俺もお前の欲の対象なの?」
「知りませんでした?」
今度は性的なものを感じさせずに、ただただ機能的に触れる手が、紅の色をはらはらと散らして行く。
「ほら、悟浄。動くと……続き、しますよ?」
「なーに言ってんだか」
ほんの少しの冷や汗と(八戒に対して?三蔵に対して?)、それでも触れることが不快じゃない指に、まるでセックスした相手との間の気楽さに似たものを感じて、笑った。
交替で髪を切り合う。
艶のある、黒に近い髪を掬い、細かく鋏を動かした。
俺のヘアカットは、女専門だったんだけど。
これほど俺が甘やかしてる相手っつのも、こいつくらいだな。
軽口を叩き合いながら、手を抜こうもんなら容赦なく文句が飛んでくる。
「今、髪の毛が鋏に引っ掛かりました?」
引っ張られて痛かったらしい。
「ほんと、いつもながら綺麗な髪だなー」
「口説かないで下さいね」
即座に冷静な声が返ってくる。
少しぐらいは、勘弁しろよ。
「口説かれたらオチちまう?」
切り掛けの髪を放っぽりだして、座る八戒の背に寄り掛かってみる。
腕を前に回して。
「手ェ。疲れちまったなあ」
「途中で放り出して、やめる気ですか?」
「どうしようかなあ」
「僕相手にじらしプレイして、一体どうするつもりなんです?」
「却って襲われそうで、ごじょう、コワーイ」
「どの口が……」
むすっとした八戒の表情。
こいつにしては、珍しい。
「髪の毛、半分切って残り放置って、……じらしプラス羞恥プレイ?」
「……それはそれは。燃え上がった僕に襲われるのを、そんなに悟浄が楽しみにしていてくれたとは。」
「知らなかった?」
低い声で囁くように言うと、八戒は首を反らして俺を見た。
象牙の首筋も露わに、翡翠に孔雀の羽みたいな光を映して、薄い唇が笑みを形作る。
「それなら、これからは手加減ナシってことで…?」
仰け反る八戒に屈み込んだ。
黒髪が風にさらわれ、白い額が暴かれる。
楽しげに細められる瞳の碧。
ゆっくり、ゆっくりと唇を落として行く……
「ぷっ」
「くっ」
同時に吹き出し、身を離した。
我慢大会。
根性試し。
いや、ある種肝試し?
「「ああ、怖かった」」
また同時に言って、俺達は笑った。
遠くの三蔵は益々機嫌が悪そうで、可哀想で可愛くて、二人で目を見合わせてまた笑った。
このっ。
今度は絶対味わってやるからなっ!
歯ァぶつけて唇腫らすの、てめェの方にしてやるからなっ!
逃げながらも、不穏なことを考えているのが伝わるのか、八戒の追撃は緩まない。
「だあから、八戒!誤解だってばッ!」
「悟浄?顔が嬉しそうですよ……?僕、妬けちゃいますねぇ」
湖の上を渡る気孔波を、水面はきらきらと反射した。
走り回る髪を嬲る、爽やかな風。
逃げながら振り返ると、ジープの助手席に収まる三蔵は、空に向かって紫煙を吹き上げていた。
悟空が茫然と立ちすくむ。
コイツといい、アイツといい!
「一体誰に焼き餅妬いてやがるんだよ!?」
……だから、八戒!
お前の気孔は殺傷能力があるから、だからそんなにぎりぎりに放つなっつの!