呼ばれたような気がして目を開けた榎木津は、ぱっくりと開いた猫の口を見た。
薄桃色の縁のある真っ赤な裂け目に、尖った小さな歯が植わっている。
否。
牙と言うのか。
ぼんやり、と見上げながら榎木津は思う。
機能していれば何でもよいのだが。
ものを食べることが出来るのなら、歯でも牙でもどちらでも困らない。
生えていればそれでいいのだ。
「…虫歯も無いようだしなあ」
眠りから覚醒し切れぬまま、見上げる角度で猫を見た。
中禅寺家の座敷である。
愛想の無い猫は、誠に主に似ている。
つまらなそうな顔をして、また、にゃあ。と鳴いてあくびをした。
その裂け目に何かを思い出しかけたのだが、それでも完全に覚醒をしていたならば、其れ程までに猫を凝視することもなかったであろう。
榎木津の色素の薄い瞳がぼんやりと猫の顔を眺め、細長い瞳孔に出逢って止まり。
猫の目が、すう、と細くなった。
ヒトの記憶。
ふと見えてしまうこともあり、探偵の仕事が入れば、やむなく膨大な量の記憶を時間を遡って捜し見ることもある。
他人には見えない其れについて、中禅寺は学生時代に榎木津に向かって、脳の中に全て蓄積されているのだと言っていた。意識に登る整理整頓されたものだけではなく、脳は全てを蓄えていると。
時系列に沿って並ぶ記憶や、無意識に呼び覚まされる記憶。
榎木津には其れが見える。
人の思考が読める訳ではない。意志や感情も読めない。声も聞こえない。
それでも時折見たくもないものも見える。
諍いに歪む人の顔。
恐怖や悲しみにすくむ顔。
嘲笑う顔。
彼岸の頃、そこら中に咲き乱れる曼珠沙華の赤を見ては、人は喪った思いを繰り返していた。
震災や、戦災、南方で流れた血。
榎木津自身の知った街が焼け燻っている記憶。崩壊した家屋から掘り起こした幼子の遺体を抱きしめる、泥と血に塗れた指。密林の緑の中で重傷を負った兵士が腕を差し伸べ、それが力無く落ちて行く様。
盆と彼岸の頃には、いっそ外国にでも行ってみようか。
ここ数年はそう思い続けているのだが、商用でもなければ海外へ渡る許可も得辛い。父親の名を出せばことは簡単ではあるものの
「あの馬鹿親父にそんなこと頼んで見ろ。一万五千年くらいは嬉しげに言い続けるぞ!」
想像するだけで不愉快になり、和寅に当たり散らす程度に留まっている。
動物はラクなのだ。
余分なものが一切無い。
ただ見たままに記憶し、経験として活かす。
発展は無いが、無駄もない。
酷く楽な気分になって榎木津は、
猫を
見た。
注視してしまった。
相も変わらぬ仏頂面で、床の間を背に古書を捲っている。ひたすら仏頂面だ。
関口は中禅寺を誰に例えていたのだったか。
「充分な準備もしないで落っこちてる人を助けようとして、挙げ句全部落っことし直してしまったハナシを書いた、あぶらかたぶらとかいう人だ」
少し呼び名が違っていたかも知れない。
そんな意地悪そうなことを書くような男とは、中禅寺は似ても似つかないだろうと榎木津は思う。
中禅寺は 優しい。
それが自分の弱さでもあるかのように京極堂は出し惜しみするが、
「関君を長年見捨てない京極堂の慈悲が、やはり猿には通じないのだ」
自分は神であるから下僕達の隅々にまで責任がある。故にたまには扱き遣ってやらねばならぬのだ。
猫の瞳に魅入られつつ、ぼんやりそんなことを思い浮かべる。
神である自分と違って、中禅寺には責任が無い。
やたら長いものではあるものの、袖摺り合うも多生の縁、程度だ。
それをか弱い精神の関口を、庇うよう守るように付き合い続ける。関口の『秩序』を整えてやる。自分をすぐに喪う関口に、『自分の在処』を示してやる。
『自分』
中禅寺が榎木津に言った言葉もそれだった。
「榎さん。榎さんが見たもの全部を引き受けていたら、何れ、どんなに強靱な人間だって壊れてしまう」
不機嫌そうに続ける。
「…自分の見たものと、他人の見たものを完全に区別しないと 。きっと榎さんは子供の頃からそうと知らずにやっていたのだろうけど。視力が落ちて以前よりそういったものが多く見えるのであれば 」
あれはあれで心配している貌だったのだ。
余程慣れないと判らないような心配顔など、判る者にとっては却って不安の元でしかないのに。
「榎さんは、榎さんだ。誰のどんな記憶も、榎さんの体験にはなり得ない。他人の記憶をあんたが背負いこむ必要など無い」
凶悪なまでに不機嫌な顔で、
榎木津の色素の薄い目を見た。
睨み付けるような、心配の仕方だった。
榎木津は、理路整然としているクセに不器用な中禅寺の優しさに、笑った。
以来、榎木津はこの座敷によく顔を出すようになった。
纏わり着くものが、溶ける。解れる。繙ける。
脳に蓄積され続ける記憶が、睡眠によって整理され、整頓され、解釈されるように。
中禅寺家の座敷に横たわるだけで、澱のようにたまったものが『自分』とは別のものとして、落ち着く場所へ落ち着く。
不機嫌そうな仏頂面の、優しい男の家に来る度に。
中禅寺が袂から見える白い腕を取り、そのまま引き寄せ接吻ける。
細君は一瞬大きく目を開け、微笑んだ。
微笑んだまま黒い瞳に目蓋を落とし、柔らかな動きで仏頂面の男に身を委ねる。
穏やかな情交だった。
たおやかな躯を覆う中禅寺の、指先までもが穏やかだった。
不機嫌そうな優しい顔を、ぐったりとした白い躯に伏せると、子供のように目を閉じた。
「ちづ」
中禅寺の唇が微かに動く。
中禅寺の眠たげな顔が、急に揺れながら近付いた。
「ああ。猫が見ていたのだ。猫が近付いたのだ」
榎木津がぼんやり思う目の前で、白い腕がゆるりと動くと猫の視界が掌に伏せる。
視界の端で、中禅寺が薄目を開けてくすりと笑い、また柔肌に顔を伏せて目を閉じた。
猫が榎木津を見下ろしてまた鳴いた。
榎木津は、ぼうっとしたまま身を起こす。
酷くぼんやりとした目覚めは、夢の続きのようだった。
「あら榎木津さん」
中禅寺の細君が、剥いた水菓子を持って座敷に入って来た。
「お目覚めになりましたの。これ頂き物なのですけど、召し上がってくださいな。とても瑞々しくって甘いんですのよ。…まあ寝癖」
ころころと鈴の鳴るような笑い声だった。
袂から垣間見えた白い腕が、梨を載せた皿を差し出し微笑む口元を隠す。
「よくお眠りになれましたのね」
言われて榎木津はくしゃくしゃと髪を掻き回し、その手を白い腕に伸ばしてみた。
腕を取られた細君は、小首を傾げる。
「…暖かい。そして柔らかい」
ぼうっ、とした声を出した榎木津を、中禅寺の細君は寝惚けているのだと思ったらしい。ころころとまた笑む声を上げた。
「僕は思ったまでを言っただけだ。うん、優しいいい腕だ!実にいい手だ!」
急に大きな声を張り上げ、榎木津は梨を美味そうに食べ出した。
「うん!この梨も、瑞々しいいい梨だ!千鶴さん、素晴らしいぞっ」
上機嫌で梨を口に放り込む榎木津に、細君は微笑む。
「…ねえ千鶴さん。僕は常々、無愛想な京極堂に、千鶴さんみたいによく出来た女性は勿体ないと思っていたんだけどねえ」
梨を頬張りながら喋ろうとする榎木津に、また微笑む。
「やっぱり千鶴さんがいてくれてよかったと思う。あいつはあれで…優しい奴だから」
「まあ」
中禅寺の細君は驚いたような声を上げた。
「あの馬鹿本屋の為にはね」
「…はい。仏頂面の石地蔵ですけど」
「誰が石地蔵だ」
顔を見合わせくすくすと笑っていると、頭の真上から不機嫌そうな声がした。
「お前の他に誰がいる!僕達は正しいぞ。仏頂面な馬鹿本屋の石地蔵、これ程までに正確な呼び名が他にあるかっ」
榎木津が嬉しそうに振り返り、指をさした。
指の先で、風呂敷包みを抱えた中禅寺が、さも不本意そうな顔で立っていた。
「主の留守中に上がり込んでふんぞり返るような、非常識な人間が何言ってるんです」
「あら、私がお上がり下さいと申しましたのよ。…あなたが、すぐに戻ると仰ったから」
「そうだっ。それに僕がふんぞり返ったのはつい先刻だ。それまでは寝転んでいたぞ。それにお前の抱え込んでいるのは、やっぱり本じゃないか!」
榎木津ばかりか自分の妻にまでやりこめられ、中禅寺は複雑そうな表情を浮かべた。
「古書肆が本を扱わないで何を扱うと言うんだ」
古い蔵からの掘り出し物を丸々引き取り、人を頼んで持って帰って来た古書が、今京極堂の表に大八車にひと山分あると、中禅寺は白状した。
「それを運び込まなくちゃならないから、榎さん、あんたの話を聞くのはその後だ」
「手伝ってやろうか?」
「やめてくれ。あんたに何か頼んで、ものごとがすんなり運んだ試しがない」
袖を捲り上げようとする榎木津を、中禅寺は慌てて制止した。
「何だ、面白くない…。では僕はこれで失礼することにする!千鶴さん、実に美味いお茶と梨だった」
「榎さん、あんた本当に何しに来たんだ」
操り人形のようにすっくと真上に立ち上がった榎木津を見て、中禅寺は溜息をついた。
「そんなの、眠りに来たに決まっているだろう!」
上機嫌の極みの榎木津に対し、中禅寺の仏頂面が益々不機嫌の色を帯び。
また、呆れたように溜息をつく。
呆れ顔のまま中禅寺は京極堂の表まで出た。
見送りの為ではなく、古書を店に運び込む為だと不機嫌そうに告げる。
にゃあ。
榎木津が振り向くと、猫が飼い主の足下から顔を覗かせた所だった。
そのぱっくり開いた赤い口に
「ああ、石榴。石榴という名前だった」
漸く思い出せた榎木津は、
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