ひまわり
 図工室には、絵の具と粘土の匂いが満ちていた。
 蛭魔が背を押し付けられた壁には、夏休み絵画コンクールに入賞したという絵が画鋲で留め付けてあり、身動きする度髪が触れてかさかさと、乾いた音を繰り返していた。
 腿を撫でて来る掌の、普段は気持ち悪いものでしかない汗ばんだ感触が、その日はひんやりと、少し心地よく感じられた。
「蛭魔君」
「なんスか、センセ」
 性器を握り込まれたままだと、返答が一呼吸遅れる。
 膝近くまで下ろされたハーフパンツが鬱陶しかった。
「いつか君の絵を描きたいなあ。補助教員にしかなれなかったけど、本当は絵描きになりたかったんだ。本当に絵を描くことが好きだったんだ。君を見ていると、また絵を描きたくなって来る」
 首筋からのくぐもった声が、何度となく繰り返したことを言った。
「俺はモデルなんかやんねーよ。でも、絵なんか勝手に描けばいいじゃん。絵ェ描いてりゃ絵描きって言うんじゃねえの?」
「大人だもの。生活のこと考えなくちゃいけないから、先生になったんだよ」
「ビンボーな絵描きもいるんじゃないの? 教科書に載ってた……耳切った、ゴッホって人とか」
 蛭魔を壁に押し付けていた男が、身を震わせて笑った。
「ゴッホは天才だもの。でも特別な天才だったのに、同時代の人には理解して貰えないで、絵が売れないから食べる物にすら困ってたんだよ。信じた人とも道を分かって、苦しくておかしくなって、自分で耳を切っちゃったんだよ。もの凄い人だったのに、ピストルで自殺しちゃったんだ」

 じさつしちゃったんだ。
 たいへんだろう?

 大事なことをこっそり囁くようにしながら、男の目は先ほどの笑いの形を残していた。
「たいへん過ぎて自分には出来ねえって?」
「天才だって自殺しちゃうんだよ?」
 男は蛭魔の首筋から胸元に唇を移していた。
 さっきまで腿を撫でさすっていた掌が、蛭魔のシャツを肩から滑り落とす。
 蛭魔の目に、自分の肩を照らす日差しの、白い光が射し込んだ。
 図工室のガラス越しに、太陽の光は真夏の名残の強い光を放っていた。

 蛭魔は、教科書の図版の、のたうつような筆致を思い出した。
 明るいひまわりも、夜の月に向かって伸びる糸杉も、燃える炎のようだった。
 空気すら、夜空すらもが、焦がれのたうち呻き声を上げながら、生きていた。

「……そったれ」
「え? なに? 声小さくて聞こえ……」

 パチ、と、蛭魔は右手を伸ばし指を鳴らした。
 男が背後で鳴った音に振り向いた瞬間、しゃがみ込む。
 瞬間、図工室に白い光が満ちた。
「な、なに?」
 カメラのフラッシュが焚かれたことに気付いた男が、見苦しい程に狼狽えながらファスナーを上げる。
「ちゃんと撮ったか?」
 素早く男から離れた蛭魔が、使い捨てのカメラを持った小柄な人物に近付いた。
 カメラを持ったまま、真っ青な顔で立ち竦む蛭魔の同級生の顔を見て、男は更に血の気を引かせた。

「ね、キミ、どうして? ……カメラ、渡して。返して、それ、寄越して」
 男は血の気の引いた顔で、ひきつり笑いを無理に浮かべながら少年に近寄った。
 伸ばした腕の先、カメラに向かって指が掴む仕草を繰り返す。
「このカメラは蛭魔君のものです。それに……蛭魔君にまでこんな。こんなこと誰にも言えないって思ってたのに……」
「誤解だ。君にだって無理矢理になんて何もしてないし、蛭間君には絵のモデルを頼もうとしていただけで」
「アホウ。描きたい描きたいって、口ばっかで結局一枚も描かなかっただろうが」
 少年から素早くカメラを受け取った蛭魔が、呆れ声をあげた。
「蛭魔君、だって君も嫌がらなかったよね!? 僕は無理矢理になんて君に何もしてないよね!?」
 男の声がひっくり返って段々高い音階に移行して行くのを聞くうちに、蛭魔の鼻に皺が寄ってきた。
「ナニもしなかった、か。確かに、写真に撮られたコト以外のことはなんもしてねえな。こいつらにも、同じ事しかしてねえよな」
 狼狽えたまま、男がカメラに手を伸ばした。
 腰が引けたまま、自分よりも遙かに小さな体格の子供を男は追い掛けた。
 脚が縺れていた。
 また、白い光が室内に閃く。
「無様過ぎ。相手の足の早さわかんね?」
 机を回り込んで逃げながら、蛭魔はフィルムを巻き続ける。
 数度、室内にフラッシュの光が走った。
「ほら、いい加減諦めな。ガキに咥え込ませてる写真バラ撒かれたくなかったら、枯れるまで大人しくしてんだな」

 タン!
 
 机の上に飛び乗った蛭魔を追いながら、男が泣き出す。
「蛭魔くん、やめてくれよ。僕困るよ、君だって写ってるんだろ? そんなものみんなに見られたら、君まで笑われちゃったり変な目で見られたりするんだよ?」
「そんなヘマやるかよ。テメエのケツで俺の顔なんか隠したって」
 蛭魔が机を飛び移る度に、パイプの脚が床をずれる音がした。
 掃除の時間によく聞く、埃と振動を伴う音だ。
 タン、タン!
 ガタ、ガタタン!
 蛭魔の靴の裏が立てる音よりも、男の躯が机にぶつかる音の方が、大きくなる。
 ガタ、ガタガタ、ゴトン。
 とうとう、机をひっくり返し倒れ込んだ男の傍に、蛭魔が近付く。
 床に這いつくばった男の見上げる視界には、机の上に立った蛭魔の表情は、窓から差し込む逆光に隠れて映った。
「テメエ常習だろ。ガッコで働いていたかったら、二度と子供に手を出すな。胸糞悪ィ」
 がば、と男が身を起こす。
「馬鹿じゃね? オトナにナンカされて何も言えない奴しか相手に出来ねーの。何で俺みたいなのまで手ェ出すかな」
「それはっ。だから蛭魔君の絵を描きたかったからっ……」
「口だけで結局描かなかったな。ヒトのことべろべろ舐めるばっかで気色悪い。写真バラ撒かれたくなかったら、描く気も無い絵を『描きたい』って言うのも止めろ。二度と口に出すな」
「……あっ、あああああっ、あああアアアア!」

 図工室を飛び出して、廊下を走り、階段へ。
 よろめきながらの足音が遠離る。
 合間に聞こえるおめきが、不思議な程に長く響いて聞こえていた。




「蛭魔、どうする? アイツ飛び降りちゃったら」
「ンな根性ねえだろ。どっかで隠れて泣いてるんじゃね?」
 同級生の少年は、蛭魔の手許のカメラを見つめた。
 軽いプラスティックと厚紙と、レンズだけで出来上がったカメラ。
 その中のフィルムに焼き付けられたものに大の大人があわてふためく様は、滑稽でありながら恐ろしくもあった。
「これでもう、アイツ誰にもあんなことしなくなるかな」
「さあな。写真バラ撒かれるのが嫌なら大人しくなるだろ。……お前、何ヒトの事ばっか言ってる? 俺がお前の写真も握ってるって忘れた?」
「憶えてるけど、別にいいや。蛭魔の命令ならきいてもいいよ。下僕になる」
「面白くない奴」

 図工科の補助教員にイタズラされた同級生。
 ふとしたことで、蛭魔はその現場に居合わせた。
 その同級生を脅して、補助教員の写真を撮らせた。
 それだけだった。
 蛭魔がきつく問いただすまでの同級生の沈黙も、補助教員が絵を描きたいと言い続ける間、蛭魔が写真を撮るのに時間をかけてしまったのも、全て過ぎ去り、記憶に残さぬつもりの出来事だった。
 最後に聞いた男の声が妙に悲しげに感じられたことも、すぐに忘れるつもりだった。

『こんなこと、怖くて今まで誰にも言えなかった』
『ねえ、蛭間君。君を見てると絵が描きたくなる』

 目の前の同級生は、いつまで耐えているつもりだったのか。
 補助教員が本当に蛭魔の絵を描き始めていたら。
 仮定の未来を考えかけている自分に気がつき、蛭魔は勢い良く机から飛び降りることで、思考を中断させることにした。
 本当に絵を描いたのだったら。
 本当に今度こそ描きたいと思っていたのだったら。
『描きたいって、二度と口に出すな』
 願いがあるなら、どんな抑制がかかっても撥ね除ける筈だ。
 ホントウに心の奥底からの欲望なら、数枚の写真での脅迫なんかでは、留めることなんか出来ないに違いない。
 そんな思考を、リノリウム張りの床に靴音を響かせて、中断させた。

「どうする? 取り敢えず家まで鞄持とうか?」
 少年は自分のランドセルを背負ったままで、片方の肩に蛭魔の鞄を掛けようとした。
「別に今日はいらね。その代わり給食当番これからずっと替われ」
「……それだけ?」
「今はな」
「そう」

 窓の外に顔を向けたまま、ひらひらと掌を振る蛭魔を後に、少年は図工室を出て行った。
 また静寂と、粘度と絵の具の香り。

 ひまわりの絵の息遣いが、蛭魔の脳裏に蘇った。

 これでもか、とねじくれながら発散していた、生気。
 濃密に渦巻く空気。
 それ程までに濃い密度の、一体何が、片耳を切り落とした男の中にあったのだろう。




 今度こそ思考を完全にシャットダウンする為に、
 蛭魔は窓にかかるカーテンを、勢い良く引いた。








end





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