幼い頃、寒さにかじかむ指に息を吐きながら見上げたのは、これと同じ星だったのだろう。
誰にも祝われない誕生日を、ひとりで過ごすのが常だった。
長じてからは、肉感的な女達が、笑いさざめく理由のひとつとして悟浄の誕生日を祝うようになった。楽しく笑い、暖かな躯と甘い匂いに包まれて過ごし、気怠く翌朝を迎える為の日になった。
要は、幼い頃も、現在も、日常に埋没しきった日なのだ。
「…今年はプレゼント買い損ねちゃいました。ちょっと遅れますけど、何かリクエストがあったら言って下さいね。そのうち必ず探しますから」
八戒の言葉に、悟浄は意識を引き戻した。
「お前、毎年酒買っててくれたり、ご馳走作ってくれたりしてたもんな。マメだよなあ」
「記念日って、僕忘れないんですよ。…記念日が沢山「いる」悟浄の方が、マメなんじゃないですか?」
「『今日誕生日なの。祝ってv』なんて言われたら、喜んでお祝いしちゃうけどな。来週だの、来年だのの約束になると、忘れっちまうからな」
「そうなんですか?もっと細やかなんだと思ってました。だから女の人にもてるんだと思ってたのになあ」
「当日限定で、心からお祝いすんのよ。誠心誠意のヒトなんだから」
「誠心誠意、ですかぁ」
3年間悟浄と同居していた八戒は、常に複数の女性と付き合いつつも、不思議と恨みというものを買わない悟浄を見て来ていた。
流れる風のように、独占欲など持ちようもない人物だと思っていたが、女性にとっては与える心を満足させる相手なのかも知れない。その時、その時に、素直な欲望で肉体を貪る健康さは、確かに『誠心誠意』という言葉が似合うのだろう。
「…まあ、そういうことにしておきましょうか」
「ナァニよ、信頼ねえな、俺も。…で、八戒さん?本当に祝ってくれる気持ちはあんの?」
「え…?」
悟浄は八戒の肩に腕を伸ばした。ぐい、と身体ごと首を引き寄せ、耳元で囁く。
「『今日誕生日なのv』……寒くってさ。プレゼントなくっていーから、ちゅーくらい頂戴よ」
悟浄が女性相手に囁いているのを、八戒は見たことがあった。瞳をまっすぐに向けて、世界中で只ひとりに話しかける…。そんな女ったらし振りに、いっそ感服したのだが。
八戒が首をひねると、ふざけた悟浄の瞳が、明るい色で笑っていた。
「ほっぺにちゅーくらいなら、僕も吝かではないですけどね」
八戒も、にやりと笑って悟浄の腕を掴み、逃げられないように抱え込んだ。
「うわ!まじかよ!」
「今更逃げない!!」
八戒は空いた腕を悟浄の首に回し、無理矢理悟浄の頭を引き寄せると、笑いながら音高く頬に接吻けた。キスをされた悟浄も、息を切らして笑い続けている。
「……はあ〜〜〜。お前さん相手に冗談言う時は、話題を選ばなきゃなんないのね」
笑いながら悟浄は八戒の肩にもたれかかった。
ふざけて暴れて、先程までの肌寒さはすっかり感じなくなっていた。
寄り掛かる悟浄の首に、まだ巻き付いたままだった八戒の腕が動いた。掌を、ぽんぽんと紅い髪の頭に載せる。
「でもあなたにキスするのは、嫌じゃないですよ。三蔵ほどではないにせよ、僕も無闇に他人に触れるタイプではないですけどね。今自分が笑って生活してるのも、少し前を考えると信じられないくらいですから。……あなたや、三蔵や、悟空のお陰ですからね」
悟浄が抱えられた首を無理矢理捻ると、八戒が穏やかに微笑んでいた。
「今の僕は、あなた方のうち誰一人欠けてもいなかったと思うんです。だから悟浄、あなたの生まれた今日という日に、僕は心から感謝します。あなたに出逢えたことを…」
驚いて立ち止まる悟浄に、八戒は向き直ると両肩に手を掛けた。
「先刻のは冗談。…これは…」
穏やかな翡翠の瞳を閉ざすと、ゆっくりと悟浄に近付く。
薄い唇が、悟浄の弾力のある唇にそっと触れた。「お行儀のよい」と言ってもいいような触れ方に、悟浄は薄く唇を開いた。
悟浄は、女達との接吻けが好きだった。散々唇を焦らして、必死で追い掛けて求めさせるのが好きだった。その過程の女達の瞳が好きだった。蕩け切ったところで求めるものを与えられる女達を見るのが、好きだった。
そんな普段のやり取りの仕方を忘れさせるように、八戒の舌先が悟浄の唇を薄くなぞり、誘われた。
唇に誘われたところで悟浄は、睫毛が触れそうな近さの八戒を見た。目を瞑ったまま、純粋に微笑んでいるらしいその顔に、悟浄も呆れたように笑って。
瞳を閉じた。
唇が離れ、どちらともなく吐息をついた。
「先刻のは冗談。で、これは感謝のキモチ」
悪びれずに微笑む八戒に、悟浄はもう一度吐息を吐いた。
「本当に感謝か…?キスで食われるーって感じたのは、生まれて始めてだぜ。確かにキモチ悦かったけどな」
「それにしても悟浄、やっぱりキス上手でしたねえ!参考になりました」
「……俺やっぱり食われたんじゃん。それどころか、もしかしてバレたら三蔵サマに殺されるんじゃねーか、俺?」
「…さあ?ご自分でバラす気になります?」
「………。」
再び星空を見上げつつ、野営地へ向かう。
星の輝きに孤独さを感じた頃を、痛みを伴わずに思い出せるようになっている自分を、悟浄は感じた。
「…悟浄。先刻から一体なんだ」
「ん…?キスしてえなと思って」
「はァ!?」
素早く細い顎を掴まえ唇を押し当てると、三蔵の手からスキットルが落ちた。思った通りの柔らかな唇からは、スコッチと、自分の嗜好の煙草とは違う匂いがした。
覆うように接吻け、柔らかさと甘さを存分に貪る。
ふっくらとした下唇を果物の様に囓ると小さく声が上がり、そのまま悟浄の舌が隙間から滑り込んだ。滑らかな歯列の表面を探り、萎縮する三蔵の舌を追い掛ける。
金色の睫毛が震え、紫玉を覆った。
あやすように、誘うように、自分の覚えた駆け引きを全部試すようにして、三蔵を追いつめる。追い掛ける。口蓋を撫で、吸い上げ、熱い舌を絡め誘い出す。
やがて蕩けた舌先が、悟浄の唇を掠めるように撫で、甘えるように噛み付いた。
満足そうに悟浄の唇が笑みを形づくった。
「……ごちそうさま」
「てめェ…」
すっかり灰になった煙草を焚き火に放り込むと、三蔵は袂で口元を拭った。その悔し紛れの仕草に、悟浄は目を細めた。
「ずっと目ェ開けてんじゃねェよ」
今度は声に出して笑う。
「 ―――― 撃たれるかと思った」
「くだらん。弾丸の無駄だ。」
「マジ、撃たれるかと思ったんだけど?」
「………。」
笑みを浮かべながら、それでも悟浄の瞳はまっすぐに三蔵を見た。
「お前、他人に触れられるの苦手だろ」
ゆっくりと、悟浄は三蔵の頬に手を伸ばした。
今度は、避けられるのかもしれない。
心の奥底で、常にそう予想する自分がいる。
だから女達との接吻けも、誘うだけ誘って、相手が崩れ落ちるのを待つ。目線を絡めた段階で、なにがしかの予感のようなものの走ることの方が多かった。そして挨拶交換のような、キスとセックス。若しくは、追い掛け合うのを楽しむ、ゲームの様な関係に。
今度こそ、逃げられてしまうかもしれない。
その思いに震える程緊張しながら自分から触れるのは、久し振りだった。
そう。
長い間求め続けたその相手を、永久に喪失してしまって以来だった。
「てめェに関しちゃな」
苦々しげに、三蔵が口を開いた。
「触れる触れないが問題なんじゃねェんだよ。慣れ慣れしい!図々しい!!いけしゃーしゃー!!!それが耐え難いんだよ!次は撃つからな!」
三蔵は逃げなかった。
触れた掌から逃げずに、まっすぐ悟浄を見返し、睨み付けた。
しわを寄せながら逆立った眉が、決定的な所で悟浄を否定していないことに気付く。
「……図々しくしなければ、大丈夫なんだ?」
「誰がっ…!?…っ」
素早く近付くと唇を軽く塞ぎ舌でなぞった。下唇の敏感な所を、薄く掠める様に。
「……ッ」
ほんの一瞬の感触に、三蔵が身を震わせた。
「…あ。やっぱソレに弱いんだあ」
「テメ!?」
余りに感心した声に、三蔵の頬が染まった。
「先刻のは、俺がお前にお願いしてさせて貰ったキス。今のは……いわば預かり物?お前に、返とくわ」
「はアァ!?」
一瞬の接触に過敏に感じてしまった自分に慌てながらも、三蔵は混乱気味の情報をまとめようとした。
『預かり物』 『返す』 『やっぱりソレに弱いんだ』!? そして今の、覚えのあるキス…
「 ―――― 貴様……八戒と……?」
茫然。
ぷっ。
眠っていた筈の人物が、焚き火の向こう側で吹き出した。
「八戒!?」
「ンだよ。やっぱタヌキかよ」
「…だって。僕が起きたら、どっちも居心地悪いの目に見えてるじゃないですか。タヌキ寝入り以外の何をすることが出来たっていうんです?…ぷっ。今の鳩が豆鉄砲喰らったみたいな、三蔵の顔…。結局悟浄も自分でバラしちゃうし…」
「お前も自分でトドメ刺してんじゃん」
「だって……単にお誕生日のお祝いのキスじゃないですか。妬かないとは言いませんけど、可愛いものだと僕は思うんですよね」
笑いの止まらぬ八戒に、三蔵の顔色が益々変化して行く。
「八戒、てめェ全部見て……?そのまま見てて……!?……お前、平気で……!!」
血の気が引き、やがて満面の怒りに紅潮して行く。
「……問題はな。要は貴様等が馴れ合ってるってコトだろうが。オレを巻き込むんじゃねェよ。ふたりとも、金輪際オレに触れるな。話しかけるな。近寄るな。ふたりともだ!!」
三蔵の手が懐に入る。
拳銃を握り込んだのが、着物の上からでも見て取れた。
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