akai tori nigeta -10-
 抱き合って、躯を熱狂に追い上げられた。
 気怠い疲労感に、三蔵は急速に躯が眠りに引き込まれるような気がした。
「三蔵?」
 紅玉の瞳が三蔵を覗き込み、接吻けた。
「慣れないことされて、イヤだった?」
 金糸の髪が振るわれた。
「そう?でもこんなに痕になってる」
 悟浄は、自分自信の腕をきつく掴んでいた三蔵の手を取り、滑らかな肌に残る爪痕に接吻けた。唇が優しく触れて離れる感触に、三蔵は目の前の男の掌を思い出した。
 癒すように優しく、でも触れる度に焦慮に似たものを掻き立てる、掌。
「寒い?怖い?……ねえ、俺に掴まっててよ」
 三蔵の片腕を自分の背に置かせて、笑いを堪えるように、紅い瞳が嬉しそうに輝いた。
「幾らでも爪立てていいから」
 悟浄はもう一方の腕も躯から引き剥がし、三蔵の目の前で、力がこもったままの指に唇を当てた。つい先程三蔵自身を舐め上げた舌が、ゆっくりと指を登り、爪を噛んだ。
 三蔵は息を呑んだ。
 悟浄の肩に回したばかりの腕の先で、指先が行き場をなくし、背に食い込んだ。
 悟浄は満足げに笑い、両腕とも自分の肩に回させると、三蔵に接吻けを落とした。

 眩暈にも似た酩酊感の中、三蔵は時折、怖じたように息を呑み、紅い髪と背にしがみついた。
 自分自身をコントロール出来ない不安に、苦痛と快楽で仰け反った躯を、そのまま反転して逃げ出してしまいたいと思いもした。
 三蔵の困惑を読み取ったように、甘い声がする。
「辛い?」
 三蔵は何度目かのかぶりを振ってから、早い息の中で目を開けた。
 皮肉な笑いを浮かべることに慣れた唇が、こんなにも甘く掠れる声を出すのだとは知らなかった。
 しぶとさに隠れて、紅い色の瞳がこんなにも細やかに、ひとの悦びと困惑を敏感に読み取ることに長けているとは、思わなかった。
 強引に求めては引き返し、また辛抱強く優しく触れてくる掌が ――――

 今、自分を抱いている男が、こんなにも。

「三蔵?」

 怯えるしか出来なかった三蔵の心まで染み通った声と、瞳と、暖かな掌を持つ男。
 その声は、確かに自分に届いた。
 こんなにも、心に届いた。

 悟浄は三蔵の目を覗き込んだ。
「どうした、三蔵?」
「……悟、浄」
 呼び慣れた名を、唇に乗せた。
 紅い瞳が、それを純粋に喜んだ。
「悟浄」
「もっと名前呼んで」
 回した腕で悟浄の首を引き寄せ、噛み付くように接吻けた。
 悟浄はすぐにそれを返した。
 唇の触れ合う隙間で、また呼ぶ。
 その名は、すぐに唇に馴染んだ。
「悟浄」
「悟浄」
 結び付きを深くする悟浄に、三蔵は悲鳴に似た溜息をついた。
「……っ、ご、じょうっ」
 突かれる度に。
「……ごじょっ、もっ…!」
 しがみつく指に力を込めて。
「悟浄っ……ごじょっ、あっ……!ああっ」

 砂漠に陽が登る瞬間を、悟浄は見ていた。
 薄らと明るくなり、月が紛れて逃げて行く。
 藍色の空に蜂蜜の色の輝きが広がり、太陽が現れる瞬間、地平に黄金の光が広がり、それが滲んで茜に広がって行く。
 湖の対岸からか、家禽の鳴き声が聞こえてきた。朝だ。何もかもが動き出す。
 悟浄は真上に手を伸ばし、張り出した枝から小さな林檎の実をひとつ、もぎ取った。
 青く、甘い香りがした。
「食えねェぞ。まだ渋い」
 上がった声に振り返り、横たわったまま自分を見つめる三蔵と目が合った。
 砂まみれの衣服を、ラフなままで被っている。
 朝日が射すのに三蔵は目を眇め、端に落ちていたヴェールを手に取ると、頭上に広げて目の前にかざした。
「眩しい…」
 当然のことを腹立たしそうに言う三蔵に笑い、悟浄は気付いた。
「お前……マトモに喋れるの?」
「てめェに散々発声練習させられたからな」
 口角を下に向けて、眉間に深いしわが寄った。
「……もしかして、記憶も?」
「貴様のバカ具合から、糸たぐるみたいにボロボロ思い出した。バカ猿にクソ河童、笑顔の陰険魔王だ。……てめェ等といると、ろくな記憶が残らねえんだよ。もうちっとマシな行い、積んどけ」
「ヒトのコト、言えんのかよ。この畜生坊主…」
「何か言ったか?」
「いえいえ…」
 小さな声で、触らぬ神に祟りナシ、と言うと、三蔵の鋭い視線が飛んだ。

 悟浄は笑いながらハイライトを咥えた。
 元通りの三蔵だった。
 すっかり元通りの三蔵だった。
 もう三蔵はあんなに、縋るように、縋られるように抱かれたりはしないのだろう。
 もう、この腕に簡単に抱かれることはないのだろう。
 自分の瞳を見つけては安堵し、掌の暖かみに身を擦り寄せるような、そんな風に甘えることなど、もう三蔵はしないのだろう。
 そう思った。
 この手を差し出しても、鼻で笑われるのが関の山、と言った所か。
 それでも、記憶を無くす前と全く変わらぬ、そして前夜の記憶が残っていても、自分を変わらぬように見る三蔵が、嬉しかった。

 『悟浄』

 自分の名を呼び、自分から接吻けて来た三蔵の姿が蘇った。
「三蔵……?」
 あの時には、もしかして既に記憶が蘇っていたのだろうか。
 それでいて、自分が触れることを許し、三蔵から触れてきたのだろうか。

 問うてみようかと思った瞬間、三蔵は立ち上がると、黒々とした枝から芳香を漂わせる実をもいだ。
「……食えねえって言ったの、自分じゃん」
 聞きもしないで林檎に歯を立て、眉間のしわをまた深くした。
「渋い」
「唇淋しいワケ?」
 キスでもしてみる?
 そう冗談を持ちかけることが出来ずに、悟浄は黙ってハイライトのパッケージを差し出した。
 知らず、前夜の再現場面を演ずることになり、二人の躯に一瞬の緊張が走った。

「マズいから要らん」
 三蔵はそっぽを向いて付け加えた。
「てめェのはきついんだよ。久々に吸って夕べ眩暈がしやがった」
 そのまますたすたと歩き出し、きっちり10歩で振り返った。
「天幕に戻るぞ。今日は出発する。メシを食ったら即だ」
「い゛い゛っ!?」
 それきり、振り向きもしないで離れて行く。

「……マジっすか?」
 それでも。
 夕べのことをまるきり無かったことにする気はないらしい。
 それを自分がどう受け取ってよいものか、思案しつつ悟浄は立ち上がった。

 風が吹いた。
 風は三蔵が重ねて纏っていた衣服を躯に張り付け、姿態を露わにした。
 立ち止まったその姿は、広がる砂漠にすっくと立ちあがった蜃気楼のようだった。
 ヴェールが、風に煽られ、舞った。
 空に広がる薄い布地は、茜に染まった鳥のようだった。
 茜の鳥が茜の湖に、舞い降り、消えた。
 それを見届けた悟浄が気付くと、三蔵はもう遥か遠くまで去った後だった。
 悟浄はそれを追って歩き出した。

























epilogue: OPIUM
 紅い花が揺れていた。
 老人は黙ってそれを眺めていた。
 夢を見ていたのかもしれない。
 一日の多くの時間を、夢とも現とも判らぬことを想う、そんなことに費やすことが増えた。
 紅い花が、揺れた。

「お祖父様」
 乳児を胸に抱いた娘が、幸福そうな微笑みを浮かべながら、ベンチに座る老人の元へ歩み寄って来た。
 乳児は、薄茶の髪と、黒い瞳を持っていた。

 金髪の娘は、桃源郷に生まれ育った、黒髪と黒い瞳の持ち主を、夫に持った。
 流浪を続けていた一族は、解体した。
 湖に面した小さな街は、位置的に交通の要所であったこともあり、様々な人種の行き交う街として発展を続けていた。
 一族の中でも、漂泊を続けることを選んだ者もいた。
 少しでも故郷に近い場所に向けて、旅立って行った者もいた。
 だが多くは、桃源郷という世界の中で、吸収されて行くことを選んだ。
 その地に根付き、生きて行くことを望んだ。

「お祖父様、お坊様からお言伝てを預かって参りました。ヘンプの繊維の布地を、寺院でも作りたいのだそうです。技術的なご相談をされたいと、後ほど若いお坊様達をお遣わしになると…」

 一族の解体が始まった頃、健康を取り戻した老人の元に、オファーがあった。
 オピウムの隠された山の、麓にある大きな寺院からだった。
 寺院は、人生を終える人達の為の病院を抱えていた。
 緩解治療の為の薬物の提供を切実に乞う、丁寧な求めだった。
 オピウムの畑を、油をかけて燃やし尽くそうと老人は思っていた。
 紅い花を、なお紅い劫火が包み込む幻影を、既に現実のものとして受け入れていた。
 だが、寺院からの要請の手紙には、三蔵の口添えがあったことを仄めかす文章があった。
「必ずや期待に応えて下さる筈だと、お薦めくださった三蔵法師殿も、絶大な信頼をお寄せでした」
 老人は笑った。
 散々な目に遭わせたのだから利用されろと、傲慢に睨み付ける三蔵の顔が、ありありと目に浮かんだ。
 先に命を救われたのは、三蔵の方であったのに。
「恨み百倍返しとはこのこと。したたかに生き延び、人にもしたたかに生きることを求める、全く強引なお方だ……」
 笑いながら、老人は即座に了承を伝える手紙をしたためた。

 オピウムとヘンプの栽培の、管理責任をそれ以来老人は勤めていた。
 紅い花のただ中に、若い僧達が白い衣を揺らして屈み込む様を、毎日見続けていた。
 麓の男達が、ヘンプから紙や布地を作りに、毎日やって来た。
 老人に付き添って来た娘は、その中の男のひとりと結婚した。
 娘は、小さな幸福に暮らす喜びを、日々寺院に花を捧げては感謝した。

 老人は娘から乳児を受け取り、抱き上げた。 
 高山の薄い日差しを、薄茶の髪が柔らかに反射する。
 ばら色の頬の上で、乳児の目が活き活きと輝いた。
 黒い瞳と、濃い色の眉。
 嬉しそうに、乳児の喃語で老人に話しかけ、小さな掌を伸ばしてくる。
「嬉しいか。お前は何をそんなに笑う?おお…髪を引っ張っては痛い…」
 老人が顔を顰めるのを見て、乳児はなお嬉しそうに笑い声を上げた。
「技術的な相談は、作業場の方に直接して頂ければよい。わたしは名目上の責任を預かっているが、今ここを営んでいるのは、実際に作業に携わっている人達だ。種をまき、水を遣り、刈り込み…育て、収穫し、様々にそれを活かす作業をしている人達だ」
 乳児を娘に返した。
 抱き上げるにも赤ん坊は日々重たくなり、あやすのにも体力を消耗する。
 あやし疲れた楽しげな笑顔で、娘に言った。
「さあ、作業場の方へ今の話を伝えに行ってくれ。お前の夫の元へ」
 娘が歩み去った。
 乳児の笑い声が、風に飛ばされながら徐々に遠くなった。
 その後ろ姿を暫く見守り、老人はベンチに深く沈み込んだ。

 風が吹いた。
 紅い花が揺れ、炎のようだと老人は思った。
 紅い、紅い瞳を思い出し、その瞳を持った少女が、せめて辛い最期を迎えたのではないことを、願った。
 時間を越えて願うことの虚しさと、そうすることしか出来ない自分を、穏やかに受け入れることが出来るのを、不思議に思った。
 若い頃に胸のうちに抱いていた希望や、喪失の恐怖や焦慮。
 全てを、たんたんと受け入れられる自分に気付いた。
 紅い花に少女を思い起こしても、優しく触れ、ぎこちなく返ってきた指の温度だけが蘇った。
 風が吹いた。
 日々、花を見て暮らしてきた老人には、目を瞑っていても、紅い色の花びらが巻き上げられ、蒼穹に鮮やかな色彩を散らすのが、容易に思い描くことが出来た。
 風が吹いた。
 花びらはくるくると回転し、どこまでも飛んで行くのだろう。
 明滅するように舞う紅に、少女の眼差しを連想した。
 紅く輝く瞳を、幻の少女はそっと伏せた。
 風が吹いた。
 少女の指先が、老人に伸ばされ、触れた。

 紅い花が、風に優しく揺られ続けていた。

















半年がかりの往生悪さでした(でも端折ってるなあ)
お付き合いありがとうございます
砂漠イメージは、アラビアのロレンスだの平山郁夫だのさまよえる湖ロプノールだの米蘭遺跡の有翼天使像だのの継ぎ接ぎです
尚、実際の大麻につきましては、現在政府により栽培・所持を全面禁止されていますが、依存症後遺症のない有効医療の手だてとして、また成長の早い繊維・油の採取材源として、国内使用・生産を認めさせようという運動もある植物だそうです
誤解の多い植物の、イメージを更に撓めてしまう可能性があるので、念の為…


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