眩暈にも似た酩酊感の中、三蔵は時折、怖じたように息を呑み、紅い髪と背にしがみついた。
自分自身をコントロール出来ない不安に、苦痛と快楽で仰け反った躯を、そのまま反転して逃げ出してしまいたいと思いもした。
三蔵の困惑を読み取ったように、甘い声がする。
「辛い?」
三蔵は何度目かのかぶりを振ってから、早い息の中で目を開けた。
皮肉な笑いを浮かべることに慣れた唇が、こんなにも甘く掠れる声を出すのだとは知らなかった。
しぶとさに隠れて、紅い色の瞳がこんなにも細やかに、ひとの悦びと困惑を敏感に読み取ることに長けているとは、思わなかった。
強引に求めては引き返し、また辛抱強く優しく触れてくる掌が ――――
今、自分を抱いている男が、こんなにも。
「三蔵?」
怯えるしか出来なかった三蔵の心まで染み通った声と、瞳と、暖かな掌を持つ男。
その声は、確かに自分に届いた。
こんなにも、心に届いた。
悟浄は三蔵の目を覗き込んだ。
「どうした、三蔵?」
「……悟、浄」
呼び慣れた名を、唇に乗せた。
紅い瞳が、それを純粋に喜んだ。
「悟浄」
「もっと名前呼んで」
回した腕で悟浄の首を引き寄せ、噛み付くように接吻けた。
悟浄はすぐにそれを返した。
唇の触れ合う隙間で、また呼ぶ。
その名は、すぐに唇に馴染んだ。
「悟浄」
「悟浄」
結び付きを深くする悟浄に、三蔵は悲鳴に似た溜息をついた。
「……っ、ご、じょうっ」
突かれる度に。
「……ごじょっ、もっ…!」
しがみつく指に力を込めて。
「悟浄っ……ごじょっ、あっ……!ああっ」
悟浄は笑いながらハイライトを咥えた。
元通りの三蔵だった。
すっかり元通りの三蔵だった。
もう三蔵はあんなに、縋るように、縋られるように抱かれたりはしないのだろう。
もう、この腕に簡単に抱かれることはないのだろう。
自分の瞳を見つけては安堵し、掌の暖かみに身を擦り寄せるような、そんな風に甘えることなど、もう三蔵はしないのだろう。
そう思った。
この手を差し出しても、鼻で笑われるのが関の山、と言った所か。
それでも、記憶を無くす前と全く変わらぬ、そして前夜の記憶が残っていても、自分を変わらぬように見る三蔵が、嬉しかった。
『悟浄』
自分の名を呼び、自分から接吻けて来た三蔵の姿が蘇った。
「三蔵……?」
あの時には、もしかして既に記憶が蘇っていたのだろうか。
それでいて、自分が触れることを許し、三蔵から触れてきたのだろうか。
問うてみようかと思った瞬間、三蔵は立ち上がると、黒々とした枝から芳香を漂わせる実をもいだ。
「……食えねえって言ったの、自分じゃん」
聞きもしないで林檎に歯を立て、眉間のしわをまた深くした。
「渋い」
「唇淋しいワケ?」
キスでもしてみる?
そう冗談を持ちかけることが出来ずに、悟浄は黙ってハイライトのパッケージを差し出した。
知らず、前夜の再現場面を演ずることになり、二人の躯に一瞬の緊張が走った。
「マズいから要らん」
三蔵はそっぽを向いて付け加えた。
「てめェのはきついんだよ。久々に吸って夕べ眩暈がしやがった」
そのまますたすたと歩き出し、きっちり10歩で振り返った。
「天幕に戻るぞ。今日は出発する。メシを食ったら即だ」
「い゛い゛っ!?」
それきり、振り向きもしないで離れて行く。
「……マジっすか?」
それでも。
夕べのことをまるきり無かったことにする気はないらしい。
それを自分がどう受け取ってよいものか、思案しつつ悟浄は立ち上がった。
風が吹いた。
風は三蔵が重ねて纏っていた衣服を躯に張り付け、姿態を露わにした。
立ち止まったその姿は、広がる砂漠にすっくと立ちあがった蜃気楼のようだった。
ヴェールが、風に煽られ、舞った。
空に広がる薄い布地は、茜に染まった鳥のようだった。
茜の鳥が茜の湖に、舞い降り、消えた。
それを見届けた悟浄が気付くと、三蔵はもう遥か遠くまで去った後だった。
悟浄はそれを追って歩き出した。
「お祖父様」
乳児を胸に抱いた娘が、幸福そうな微笑みを浮かべながら、ベンチに座る老人の元へ歩み寄って来た。
乳児は、薄茶の髪と、黒い瞳を持っていた。
金髪の娘は、桃源郷に生まれ育った、黒髪と黒い瞳の持ち主を、夫に持った。
流浪を続けていた一族は、解体した。
湖に面した小さな街は、位置的に交通の要所であったこともあり、様々な人種の行き交う街として発展を続けていた。
一族の中でも、漂泊を続けることを選んだ者もいた。
少しでも故郷に近い場所に向けて、旅立って行った者もいた。
だが多くは、桃源郷という世界の中で、吸収されて行くことを選んだ。
その地に根付き、生きて行くことを望んだ。
「お祖父様、お坊様からお言伝てを預かって参りました。ヘンプの繊維の布地を、寺院でも作りたいのだそうです。技術的なご相談をされたいと、後ほど若いお坊様達をお遣わしになると…」
一族の解体が始まった頃、健康を取り戻した老人の元に、オファーがあった。
オピウムの隠された山の、麓にある大きな寺院からだった。
寺院は、人生を終える人達の為の病院を抱えていた。
緩解治療の為の薬物の提供を切実に乞う、丁寧な求めだった。
オピウムの畑を、油をかけて燃やし尽くそうと老人は思っていた。
紅い花を、なお紅い劫火が包み込む幻影を、既に現実のものとして受け入れていた。
だが、寺院からの要請の手紙には、三蔵の口添えがあったことを仄めかす文章があった。
「必ずや期待に応えて下さる筈だと、お薦めくださった三蔵法師殿も、絶大な信頼をお寄せでした」
老人は笑った。
散々な目に遭わせたのだから利用されろと、傲慢に睨み付ける三蔵の顔が、ありありと目に浮かんだ。
先に命を救われたのは、三蔵の方であったのに。
「恨み百倍返しとはこのこと。したたかに生き延び、人にもしたたかに生きることを求める、全く強引なお方だ……」
笑いながら、老人は即座に了承を伝える手紙をしたためた。
オピウムとヘンプの栽培の、管理責任をそれ以来老人は勤めていた。
紅い花のただ中に、若い僧達が白い衣を揺らして屈み込む様を、毎日見続けていた。
麓の男達が、ヘンプから紙や布地を作りに、毎日やって来た。
老人に付き添って来た娘は、その中の男のひとりと結婚した。
娘は、小さな幸福に暮らす喜びを、日々寺院に花を捧げては感謝した。
老人は娘から乳児を受け取り、抱き上げた。
高山の薄い日差しを、薄茶の髪が柔らかに反射する。
ばら色の頬の上で、乳児の目が活き活きと輝いた。
黒い瞳と、濃い色の眉。
嬉しそうに、乳児の喃語で老人に話しかけ、小さな掌を伸ばしてくる。
「嬉しいか。お前は何をそんなに笑う?おお…髪を引っ張っては痛い…」
老人が顔を顰めるのを見て、乳児はなお嬉しそうに笑い声を上げた。
「技術的な相談は、作業場の方に直接して頂ければよい。わたしは名目上の責任を預かっているが、今ここを営んでいるのは、実際に作業に携わっている人達だ。種をまき、水を遣り、刈り込み…育て、収穫し、様々にそれを活かす作業をしている人達だ」
乳児を娘に返した。
抱き上げるにも赤ん坊は日々重たくなり、あやすのにも体力を消耗する。
あやし疲れた楽しげな笑顔で、娘に言った。
「さあ、作業場の方へ今の話を伝えに行ってくれ。お前の夫の元へ」
娘が歩み去った。
乳児の笑い声が、風に飛ばされながら徐々に遠くなった。
その後ろ姿を暫く見守り、老人はベンチに深く沈み込んだ。
風が吹いた。
紅い花が揺れ、炎のようだと老人は思った。
紅い、紅い瞳を思い出し、その瞳を持った少女が、せめて辛い最期を迎えたのではないことを、願った。
時間を越えて願うことの虚しさと、そうすることしか出来ない自分を、穏やかに受け入れることが出来るのを、不思議に思った。
若い頃に胸のうちに抱いていた希望や、喪失の恐怖や焦慮。
全てを、たんたんと受け入れられる自分に気付いた。
紅い花に少女を思い起こしても、優しく触れ、ぎこちなく返ってきた指の温度だけが蘇った。
風が吹いた。
日々、花を見て暮らしてきた老人には、目を瞑っていても、紅い色の花びらが巻き上げられ、蒼穹に鮮やかな色彩を散らすのが、容易に思い描くことが出来た。
風が吹いた。
花びらはくるくると回転し、どこまでも飛んで行くのだろう。
明滅するように舞う紅に、少女の眼差しを連想した。
紅く輝く瞳を、幻の少女はそっと伏せた。
風が吹いた。
少女の指先が、老人に伸ばされ、触れた。
紅い花が、風に優しく揺られ続けていた。
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